紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

第38話「上州新田郡三日月村」(後編)
(原作 第27話)(放映 1973.3.31)
テレビ版は別れのシーンもなく、二人が眠っている間に紋次郎は掘っ立て小屋を後にする。律儀に、礼として二十文を包んで布団の上に置いたようだ。
与作はできあがった地蔵様を村はずれの百地蔵の場所まで運びに行く。
お市が畑を耕しているとお粂がやって来る。
お粂は、敦賀でいい話があるから行くけど、お市も行かないかと誘うが、お市は断る。お市はこの地に根を張るんだ、と明るく答える。他所者としか見なされないだろうが、自分はこの地で暮らしていく覚悟のようだ。暗いドラマの中ではめずらしく前向きで明るいお市のキャラクターであるが、これもテレビ版だけの設定であり原作にはない。

一方与作は、百地蔵様の下に隠されていた金を偶然見つける。そのときの与作の表情は、目つき鋭く眼光に力があり、さすがアラカンさん、ガラッと表情が変わる。
「心が痛むよ」と言っていたはずなのに、何のことはない。地蔵様をひっくり返して台座の下を掘る与作。
ここで視聴者は与作が泥亀の喜三郎だと気づく。脚本上仕方がないことだが、ラストまで引っ張ってほしかった。

原作では紋次郎はこのまま中山道の方に向かうが、風と砂塵が行く手を塞ぎ一歩も進めない状態。掛け茶屋で風を避けているところに、お市が風に吹き飛ばされそうになりながらも走ってくる。
「泥亀の一味が襲ってきた。石切り跡に金が隠されていることを知って、そっちへ向かったが、その道中におじいちゃんの小屋がある。おじいちゃんはきっと殺されてしまう!」
「村の者は他所者だからって、誰も助けてはくれない。他所者は見殺しにされるんだ。旅人さんもおじいちゃんと同じ無宿人だし、流れ者だし、他所者なんだろう!」
紋次郎は助けを求められ、即座に石切り跡に走り出す。
紋次郎が突き動かされたのは、生まれ故郷の村人より、一晩だけ縁があった流れ無宿人への思いからだったのだ。もちろん助けてもらったという恩義もあるだろう。

テレビ版は違う。
紋次郎はまだ村はずれの絵馬堂にいた。この絵馬堂は、お光が赤児の紋次郎を抱いて一晩過ごしたところだろう。
ここで回想シーン。紋次郎は兄に、自分が間引きそこないの子どもだったと聞かされ「おめえは間違って生きているんだ」と残酷な言葉を浴びせられる。ほどなく姉のお光が嫁ぎ先で死んだと村人が伝えに来る。その瞬間、幼い紋次郎は家を飛び出る。
実際は8歳のときに、兄から間引きされるはずの子だったがお光に助けられたと聞き、それ以来紋次郎は口をきかない子どもとなった。そして2年後10歳のとき、お光が死んだことを知り、三日月村を捨てたのである。

絵馬堂にいる紋次郎の姿、表情には孤独感が漂っている。
「木枯しの音に消えた」で紋次郎は「おめえさんのことは思い出しもしねえが、忘れもしやせん」とお志乃に言ったが、まさにこの出生の事実は、「思い出しもしないが忘れない」トラウマなのである。

紋次郎は、間引き地蔵が並ぶ村はずれに足を運んでいた。「間引き」という言葉に動かされたのだろう。
そこへお市がやって来る。
「与作さんの地蔵で三十六体になりやしたね」と紋次郎はお市に声をかける。
本当なら紋次郎も、その内の一体になっていたのかもしれない。

第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

「あてのねえ旅でも、心に引っかかるところが一つや二つはあるもんでござんすよ」
心に引っかかるところ……一つはお光が匿ってくれた絵馬堂。そしてもう一つは、自分も間引き地蔵になってここに並んでいたかもしれないというこの地。
お市はここでもまた、一所に落ち着いて自分の故郷を持ちたいと話す。

「そんな気持ち、わからねえじゃござんせんが、旅する身となれば空と地面があるっきり。雨が降るか雪が積もるか、風が吹くか陽があるかの違ぇぐれぇで、どこにいても大した変わりはねぇって気になってくるんでござんすよ」

「疲れた手足を伸ばす。眠る、明るくなるのを待つ。今日が過ぎれば明日が来る。そこに道があれば、歩くだけじゃあいけねぇんですかい」
(テレビ版の台詞)

珍しく、無口な紋次郎にしては長い台詞を口にする。原作では台詞としてはないが、紋次郎の生き様として書かれているので、脚本家はこのシーンを入れて紋次郎を語らせたのだ。
「旅人さん、村の衆の願いごとをきいてやってくれろ」
お市は三日月村の者たちからは「他所者」と言われているのに、紋次郎に頼む。三日月村に根を張ろうと決めたが故か。
それとも、頑なに生まれ故郷を否定する紋次郎に「生まれ故郷ってそんなもんじゃないだろう?人としての情けをかけてやって」と諭すつもりか。
原作のお市は決して「村を救ってくれ」とは言わない。それどころか「他所者は見殺しなんだ。おじいちゃんを助けて」である。村人と同化しようとは思っていない。

紋次郎はお市の頼みに無言であるが、そこに泥亀の一味がやって来る。原作ではヤクザ者ばかり十人だが、テレビ版は全員浪人くずれで五人である。第一シリーズの最終回「流れ舟は帰らず」でも武士を斬り捨てているが、今回も浪人とはいえ武士相手である。最終回でもあるので、敵のレベルを上げたか。

浪人者に「金目当てか?」と尋ねられるが「あっしには、金を盗むも隠すもどうでもいいことでござんすよ」と取り合わない。
しかし金を探すため、地蔵様を倒したり足蹴にしたりする浪人たちの姿を目にして、いつもは冷めた紋次郎の表情に怒りが現れてくる。
「おめえさんたち、それを何だと思っていなさるんでぇ?」
浪人たちはその問いを全く無視して、地蔵様への冒涜をやめない。ついに紋次郎は声を荒げ、魂の叫びのような台詞を吐く。
「おめえたちにはただの石っころでも、石で刻んだこの地蔵様たちには死んだ者、生き残った者の精いっぺぇの恨みや哀しみがこもってるんだ!」

こんな長台詞を、これほど力のこもった声で叫んだ紋次郎は、後にも先にも初めてである。
地蔵様の件がなければ、紋次郎は本当に関わらずに去ってしまったかもしれない。
しかしテレビ版の紋次郎は、村人のためでも与作のためでもなく地蔵様のため……死んだ者、生き残った者の恨みや哀しみのために怒りの長ドスを抜く。

第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

石ころと岩、倒木があちこちに見え、足もとの危険な状態での殺陣を見ていると、未だに足を取られて怪我をしないかとヒヤヒヤする。
死闘を繰り広げているのに、一人の浪人だけは戦わずに必死で金のありかを探し、土を掘っている。浅ましい姿であるが、とうとう小判の詰まった箱を見つけ声を上げる。しかしその男は小判の入った箱をぶちまけるのと同時に、紋次郎に斬られる。袴がざっくり切られ血しぶきと共に倒れる姿は、山本一郎さんが腕を斬られるのと同じバージョンで、リアル感がある。がけの上から見下ろすアングルも珍しい。

紋次郎は輝きを放つ小判には全く目もくれず、跪いて倒れた地蔵様を起こす。その背後に迫る長ドス……斬りつけてきたのはなんと与作。そして自分が泥亀の喜三郎だと名乗る。
展開上予測はついていたが、「1500両のうち、500両で手を貸さねえか」にはガッカリである。もちろん紋次郎は即座に「お断りしやす」である。
紋次郎は「百地蔵を見ると胸が痛む。娘が死んだの知らせに地蔵菩薩を彫った。あれは本心だったのか?」と喜三郎(与作)に尋ねる。このときの紋次郎の目は、潤んでいるように私には見える。

喜三郎は「本心だ。だがこのお宝がお地蔵様の足元にあるとなっては、話が違う」と言い放ち、紋次郎に斬りかかってくる。アラカンさんの気迫の演技だが、さすがに殺陣は代役のようで、後ろ姿しか見えない。紋次郎も応戦するが、喜三郎は地蔵様に激突して命を落とす。
紋次郎の長ドスは喜三郎の血を吸わず、敢えて言うなら地蔵菩薩の思し召し。死をもって因業な世界から抜け出させようとしたか。

喜三郎の最後の台詞は実に重い。正直な胸の内であり、人の業であろう。
捨てた娘が死んだと話す中で「ワシも因業な男よなあ」としみじみ呟いたシーンが前半にあったが、これも因業な所業である。
娘を捨て、その死も知らなかった自分に対する罪の意識。また、孫のお市をかわいがる愛情。すべて本心だったのだろうが、金が絡むと話が別となる。

今の世の中も同じである……というか、人間はすべて業に支配されているのかも知れない。だから宗教が生まれたのだろう。特に紋次郎の作品には仏教の教えが色濃く、哀しい人の業がどの作品にも横たわっていた。だからこそ、紋次郎の孤高な姿が際立ったのであり、自分の姿を顧みて「あんな風に生きられたらカッコイイだろうなあ」と憧れるのである。

さて原作の方は、クールである。紋次郎は与作の小屋に向かって走っていく中で、泥亀の手下のヤクザ者十人を斬り捨てる。その中の一人が与作の小屋に入り込むのを見て、すかさず紋次郎は入り口の蓆ごしに長ドスを繰り出す。
手応えがあって中に入ると、血だらけの与作(喜三郎)の姿と散らばった小判が目に入る。
この意外性はテレビ版より強烈である。

一晩だけだが、ふたりの心の触れ合いがあったかのように見えたが、紋次郎にもその正体はわからなかった。
村人の頼みは聞かなかったのに、与作を助けるために泥亀一味を叩き斬った。しかしその同じ長ドスで、知らなかったとはいえ与作を斬ってしまったのだ。

ふと哀しそうな暗さが紋次郎の目に宿る。与作は「お市は自分の正体を知らない」と言う。そして「泥亀の喜三郎には違えねえが、おれが無宿の流れ者で生まれ故郷も忘れちまったってことだけは、おめえさんと同じさ」と薄ら笑いを浮かべ、囲炉裏の中に倒れ込む。鍋がひっくり返り骨董粥の残りが飛び散る。
同じような境遇であったが、与作と紋次郎の歩んだ道は全く違った。これも因業というのだろうか。

紋次郎は与作が完成させた地蔵を外に運び出し、椀に骨董粥を盛って供える。短い合掌の後、楊枝を椀に向かって飛ばす。楊枝は盛られた粥の真ん中に突き刺さり、それはまるで箸のように見えた。
遠くに見えるお市の姿、村人たちが背後で紋次郎の名前を呼ぶ声、それらに一切関わらず、紋次郎は無言で三日月村を後にする。
それらの一連の展開は、淡々と静かに進む。それだけに、原作の方が虚無感や喪失感が大きい。

第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

一方テレビ版のお市は、一部始終を陰から見ていたようだ。与作の亡骸にすがり泣きじゃくりながらも、「これで村に引き水ができるんだね」と紋次郎を見上げる。
与作が実は血も涙もない大悪党だったこと、そして目の前で死んでしまったことには触れず、この台詞はないだろうと思う。
お市はもう村の一員という存在なのか。寄進された大金で引き水がされ、貧しい村にも水田ができるというわけである。

テレビ版の紋次郎は遠くに村人の姿が見えたとき、与作が握っている小判に楊枝を飛ばし手放させる。
「与作さんも泥亀一味に殺られなすった」
与作は泥亀の喜三郎ではなく、石切人足の与作のまま死んだ。精一杯の紋次郎の優しさである。

倒れた地蔵菩薩を起こしている紋次郎の脇をすり抜け、村人たちは大金が守られたことに大喜びする。全く紋次郎のことは気にとめない。それどころか倒れた地蔵にも気づかない。
もはや村人たちにとっても「間引き地蔵」はただの石っころなのだ。だいたい地蔵菩薩の台座の下に、小判を隠すこと自体許されないことだろう。
テレビ版の紋次郎は、与作の正体に騙され、地蔵菩薩に寄せる心情も裏切られ、最後に村人にも裏切られる。暗澹たる気持ちになるが、救いはお市の前向きな生き方だけか。

与作は異境の地で骨を埋め、お粂は敦賀に流れていく。そしてお市はこの地に根を下ろす。
そして紋次郎は昨日と同じようにあてのない旅を続ける。
紋次郎は生まれ故郷で二回間引かれたようなものである。一度は両親から、そして今回は村人たちから。結局村人のために泥亀一味から寄進の大金を守ったのだが、誰一人紋次郎に礼を言わない。
紋次郎は決して、礼を言われないことに立腹することはないし、期待もしない。
やはり生まれ故郷などは、端からなかったのである。

「お市さん、また会うこともねえでしょうが随分とお達者で……」
お市に向かって言った言葉だが、これは明らかに視聴者に向かっての言葉である。正面を向いて紋次郎は私たちに挨拶をした。切ない……胸が締め付けられる。
また会うこともないなんて、哀しすぎる言葉である。
お市は何かを言いたげだが、言葉にならない。その姿は視聴者代表である。

最後に夫婦者の旅人に、紋次郎は三日月村への道を尋ねられる。
紋次郎は一瞬、遠い目をする。そして哀しみとあきらめが浮かぶ目を落とし
「申し訳ござんせん。あっしはただの通りすがりの者で……」
と三度笠を傾けて答える。

遠ざかる紋次郎の姿を、白い霧が隠していく。
「ああ、もう紋次郎さんに会えないのか……」
とDVDで何度も見られる今となっても、当時抱いた気持ちと変わらず哀しい。

未だに、お市の代わりに紋次郎にかける言葉を探している。
答えはまだ、見つからない。

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Re: 第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

読ませていただきやした。
根なし草、自分の人生なんかもちょっと振り返ってみたわけです。
父の故郷・東京、母の出は福岡。
今、なぜか関西に暮らして、分けあって墓も作りました。
まだまだ長い長い人生が横たわっているわけですが、紋次郎人生に比べれば何もなかったようでもあります。

>「あてのねえ旅でも、心に引っかかるところが一つや二つはあるもんでござんすよ」

>「そんな気持ち、わからねえじゃござんせんが、旅する身となれば空と地面があるっきり。雨が降るか雪が積もるか、風が吹くか陽があるかの違ぇぐれぇで、どこにいても大した変わりはねぇって気になってくるんでござんすよ」

>「お市さん、また会うこともねえでしょうが随分とお達者で……」

>「申し訳ござんせん。あっしはただの通りすがりの者で……」

いずれも含蓄のある言葉です。
人生そのものが「ただの通りすがり」なんでしょうね。

有難うございました。

Re: 第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

最終回読ませていただき、ありがとうございました。

昨今のドラマの最終回はこれでもかと泣かせるように作ってあるものが多く
結末も推測でき観るに耐えないものが多いものです。

しかし紋次郎の最終回の淡々とした清々しさはこの番組制作者もまた紋次郎の人生観への共感、
いや憧れを持っている方々ではなかったかと想われました。

また最初の第一話に戻り楽しんでみますぅ~・・・笑

  • 20100807
  • ヘルブラウ ♦pDmV/urE
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  • 編集 ]
Re: 第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

小父貴さま、コメントをいただきありがとうございます。

>紋次郎人生に比べれば何もなかったようでもあります。

本当にその通りです。
紋次郎の人生に比べたら、こんな苦境、どうってことないっていう気持ちになります。

「めでたし、めでたし」でいつも終わらないんですが、それが逆に生きる勇気を与えてくれるんですね。

>人生そのものが「ただの通りすがり」

この世に永遠というものはありません。会って別れて、生まれて死ぬ……すべて無常……すべての人間は流れゆく「ただの通りすがり」だとも言えます。
小父貴さんのご指摘で気づきました。

小父貴さんのコメントで、また、この作品の深さを再認識できました。
ありがとうございました。

  • 20100807
  • お夕 ♦wikz35BA
  • URL
  • 編集 ]
Re: 第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

ヘルブラウさま、コメントをいただきありがとうございます。

この作品に関わった方々は、すべて「紋次郎」を愛していらしたと、私も思います。

最終回を迎えるまでに「山あり谷あり」のシリーズでした。
それを踏ん張ってきたスタッフの心意気には敬服します。

職人魂だけでなく、紋次郎に対する愛情がなければ、高いクオリティーは保てなかったと思います。

でも、一番愛しておられたのは、作者の笹沢氏なのかもしれませんね。

この作品に巡り会えたこと、みなさんと交流できたことに感謝しています。

  • 20100807
  • お夕 ♦wikz35BA
  • URL
  • 編集 ]
Re: 第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

お邪魔いたしやす。

「また会うこともねえでしょうが随分とお達者で」
考えてみればすごいセリフですね。
また会うこともねえと言い放つんですから。
他の回でも何度か言いましたが最後に視聴者へ
挨拶したんですね。さみしー。

テレビ版では原作ほどクールでないのがよかったです。
心に引っかかるものが少しはあった生まれ故郷。
そんな気持ちを完全に断ち切ったという感じで
最後のセリフ「あっしはただの通りすがりのもんで」が
イキてた気がいたします。

お夕さんは「また会うこともねえ」なんておっしゃらず、
続けておくんなさいよ。

Re: 第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

桐風庵さま、コメントをいただきありがとうございます。

「また会うこともねえ」という別れの言葉は、何となく突き放した感じがしますが、その後の「随分とお達者で」で、グッときますね。

最終回をこの原作としたのは、やはり正解ですね。
原作が骨格で、「お光」と「間引き」が血となり肉となった感がします。
笹沢氏は最終回のために、この原作を書かれたのでしょうか。

今は、寂寥感を少し味わって余韻に浸っております。

  • 20100807
  • お夕 ♦wikz35BA
  • URL
  • 編集 ]
Re: 第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

こんばんは。
哀しい暗さが紋次郎の目に宿る・・・原作でも、悲しい、ではなく、哀しい、なんですよね。
せつない描写だと思いました。
笹沢先生の作品の中には、心のどこかで生まれ故郷を懐かしがっている渡世人や、死を目前にして古里を目指す無宿人などが時々出てきますが、紋次郎の場合は生まれ故郷との心の繋がりは・・・切れてしまったんでしょうね。
「また会うこともねぇでしょうが・・・」携帯電話も電車もなかったこの時代、人と再会することは奇蹟にも近かったのではないかと思います。
明日のわからない無宿渡世の身となれば、なおのこと・・・。
紋次郎の無事を祈らずにはいられない、そんな言葉です。
お夕さんの紋次郎気質は長く続けてほしいです!!

  • 20100813
  • 百合子 ♦-
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Re: 第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

百合子さま、コメントをいただきありがとうございます。

「また会うこともねぇでしょうが……」

こんな別れの言葉を口にすることって、普通はないですよね。
それだけに、紋次郎が置かれた境遇の哀しさや厳しさが切ないです。

紋次郎にとっては日々、別れの連続なんですね。         
そしてその別れは、永遠ともいえる別れであったりします。
この世からの別れでなくても……生きていたとしてもお互い会うことはおそらくないでしょう。

明日をも知れぬ我が身でしょうが、誰にとっても同じ事が言えるのかもしれません。
そのぐらい人の命は儚いものです。
まさに、「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」といわれる所以でしょう。

「随分とお達者で……」

「自分の命、いつ終わるかもしれやせんが、精一杯生きておくんなせぇよ」
と、紋次郎に言われているような気がします。                      
お盆の時期なのか、妙にこの台詞にこだわってしまい何度もかみしめています。

  • 20100813
  • お夕 ♦wikz35BA
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Re: 第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

遂に最終回・・・OPのタイトル『上州・・・』を
見ただけでも胸が切なくなります。
なんといっても思い出しもしたくないが忘れることの出来ない三日月村。よくぞこの題名にしてくれました。ありがとう笹沢先生。

いつもの通り弱き者であるお百姓は狡猾で
(もちろん紋の中だけでのことですよっ)
浪人も皆、お金に執念ともいえる執着を持つ。
世の中金、金、金。。。
うんざりするような展開ですが、この歳になって
落ち着いて考えると紋の生きた時代
紋もお百姓も浪人も皆、全てのことに飢えていたんだと気がつきました。そして皆、必死に生きて
いたんだろうと。

最後だからと妙にいい話だったり、かっこいい
話でなくてホっとしました。

最初の小屋での斬りあいですが山本さんすっごい
がんばってましたね。(笑)
狭い家の中だし恩人にもしものことがないように
との思いもあったのか、1人と闘うには
珍しく時間がかかってません?

なんといっても最後のお市との会話のなかで
見え隠れする優しさを寂しさの詰まった
表情・・・本当に内から滲み出てきている
ようで泣けました・・・

  • 20110729
  • おくにゃん ♦-
  • URL
  • 編集 ]
Re: 第38話「上州新田郡三日月村」(後編)

おくにゃんさま、コメントをいただきありがとうございます。

当時は、この日が来ることを怖れていましたね(笑)。
最終回……辛かったです。
そして最後まで、やっぱり紋次郎にとっては虚しい結末となってしまいました。

土地が貧しいと、哀しい話が多い。
生まれ故郷は、紋次郎が生を受け30年以上経っても貧しかったというわけです。

金は人を狂わせます。貧しくなくても狂わせるのかもしれません。
欲がある限り、金にまつわる汚い話は後を絶たないでしょう。

私は一人、一生懸命お地蔵様を起こしている紋次郎の姿に、涙しそうになりました。紋次郎の気持ちを考えると、本当に切なくなります。

山本一郎さん、おなじみの方ですね。
敦夫さんとも親交が深かったようです。
もしも、あの二人が並んで京都の繁華街を歩いていたら……想像すると楽しいですね。

私の中での「木枯し紋次郎」は、この回で終わりました。
「新……」で再会した紋次郎は、三日月村を後にした紋次郎の延長線上ではなく、違う街道を歩いています。

  • 20110729
  • お夕 ♦wikz35BA
  • URL
  • 編集 ]
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