紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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第3話「四つの峠に日が沈む」(中編)

第3話「四つの峠に日が沈む」(中編)

第3話「四つの峠に日が沈む」(中編)
(原作 第39話)(放映 1977.10.19)
テレビ版と原作との大きな違いは、お民が一人で(赤犬はついて行くが)小太郎が逗留している下呂に向かうところだ。原作では煮売屋の女房、お杉が同伴する。
女衒の彦市に身売りされる前に、小太郎に一目会っておくべきだとお民に勧めた行きがかり上、お杉は同行する。泣ける話である。
原作では、女衒の彦市と小太郎が同一人物と感じられるものは何もない。

二人の女は、慣れない山道を喘ぎながら下呂に急ぐが、その途上紋次郎に出会う。
いつもの事ながら同行を頼まれるも断る紋次郎。しかし道すがら、柏屋の清八がお民の為に金を工面しようとしたが、源蔵一家に殺されたことを二人に告げ、危険が迫っていることを教える。

原作では紋次郎は二人の女より先に進み、金山宿の旅籠に泊まる。そこへ後れてお民たちが到着し、結局同じ旅籠に泊まることになる。
貧しい食事を一緒にとる中で、お杉は
「考えようによっちゃあ、お民さんは果報者ってことになるんだよ」
と意味深長なことを言う。
お民の望み次第で、幾通りかの生き方が選べたんだから、と四つの生き方を提示する。

1.柏屋の若旦那の情けに縋って借金を何とかしてもらい、若旦那と一緒になる。
2.借金の肩代わりを若旦那にしてもらい、これまで通り舅や姑と一緒に暮らす。
3.源蔵親分に引き取られた後、遊女暮らし。衣食住には不自由しないし、住めば都かもしれない。
4.小太郎とどこか遠くに逃げる。

普通は一つの生きようしかないのに、好きな生きようが選べたんだから……と言うのだ。四つの生き方ではあるが、前二つは若旦那が死んだので不可能である。
残る二つとなると、やはり小太郎と手に手を取って道行きか……。
しかしお民は、小太郎に会った翌朝には太田宿に引き返すと言う。小太郎と逃げると、残された病の舅に迷惑が及ぶし、証文がある限りどうにもならない。

お杉が
「あの人、あの人って、そんなに奉らなければならない小太郎さんかねえ。四年もの間、小太郎さんにほっぽっておかれたために、お民さんひとりが泣きを見ることになったんじゃないか」
と不満そうに言う。
「そんなことは、構わないんです。あの人はわたしの生涯でただひとり、大事しておきたい人なんだから……」
とお民は、頬を綻ばせる。
原作のお民は薄幸ではあるが、健気に四年間も小太郎を信じ続けたのである。

テレビ版では飛騨街道を行く紋次郎の前に犬の「紋次郎」が飛び出し、吠えたてる。
お民が
「どうしたんでしょうねえ、あんなに懐いていたのに。」
と言いながら現れる。
「余計なことかも知れやせんが下田宿に戻ったほうがよくありませんか。金山宿まで三里近くありやす。山越えの夜道はとても女の足じゃあ……。」
と、珍しく紋次郎がアドバイスする。
「今夜下田に泊まってやり過ごし、明日の朝、太田宿に戻ったほうが……。」
さすが、紋次郎。大人の分別であるが、それではドラマにならない。

その後はいつものパターンで、「私も連れて行ってください。」と頼まれるが「連れは作らない。」と断り、お民を置いて先を急ぐ。
深い山の緑の中、取り残されたお民と犬の姿が小さくぽつんと見える。この光景はかなり印象的で絵画的である。

山小屋で紋次郎は野宿。繕い物をしているところに、お民が来る。
今度は吠えない犬の紋次郎に、さっきは万能膏の匂いがしたからだろうと、紋次郎が答える。

紋次郎は夜道を歩いてきたお民に少しいぶかしげであるが、話題を変えるようにお民は「私にやらせてください。」と繕い物をかってでる。しかしいつもの台詞「慣れておりやすから。」と断る。
前シリーズでは、「流れ舟は……」と「冥土の花嫁……」でも断っているが、紋次郎の表情はいつになく柔らかい。

お民が自分の身の上を語り出す。
自分はひとりぼっちで、亭主の小太郎は出奔したので無宿人になってしまった。自分はもう小太郎とは縁が切れているけれど、明日こそ、明日こそ帰ってくると思い続け四年も経ってしまった。何度も探しに行ったが、今度が最後であること。
飛騨の匠の小太郎のことは、私しか……今でも一番大事な人なんですと語る内容は原作と同じである。

この山小屋の中で泣けるのは、眠っていたお民がふと目を覚ますと、自分の身体の上に紋次郎の合羽がかけられているところだ。
お民の向こうに紋次郎が板壁にもたれて眠っている姿が見える。青白い焚き火の煙がうっすらと部屋に流れ、鳴く虫の声が聞こえる。
何とも情緒深くしっとりとした場面である。紋次郎の優しさをかみしめるようにお民は合羽をぎゅっと胸に抱く。

夜が明け再び目を覚ましたお民には、もう合羽はかけられておらず、紋次郎の姿もない。慌てて飛び起き、焚き火を消すお民。
眠っていた時は小さい炎だったのに今は大きく炎が揺れていた。普通、消えるが……と思ったが、紋次郎がきっと立ち去る前にお民のために「ほた」をくべておいたのだろう。
「急いで追いつかなくっちゃ」と思い詰めた表情のお民。
なぜ、紋次郎に追いつかないといけないのかと疑問がわくが、これがラストのどんでん返しにもつながる。

紋次郎の後を追いかけるお民と、山中泣きながら歩いていた初めのシーンが重なる。お民の強い意志を示す表情には、か弱さは微塵もなく、歩く姿には執念のようなものを感じる。
原作のお民像とは随分違う。

第3話「四つの峠に日が沈む」(中編)

先陣を行く源蔵一家の子分たちが紋次郎を見つけ、斬りかかってくる。
崖のような急な山道を紋次郎が駆け下りてくるシーンは、スローモーション。川の音、合羽の風切り音、駆け下りる足音……なかなか格好いい。

簡易に架けられた小さな橋での殺陣。バランス感覚が無いと難しいであろう。
橋の上で「助けてくれ。」と土下座する男は、「後6人いる。浪人も親分と一緒だ。」
と紋次郎に教える。この後が面白い。
「立て!」と怒鳴る紋次郎。「頼む、殺さないでくれ!」と土下座を続ける男に
「おめえが行かねえと通れねえんだよ!」ともっともなことを言う紋次郎に苦笑する。

ふと振り返るとお民の姿が崖の上に……。
隙を見せたと思ったのか男が襲いかかってくるが、橋の上に仰向けになりながら応戦。男は刺されて川に落ちる。
もう一度振り返った先にはもうお民の姿はない。お民はなにか、変である。

変と言えば次のシーンも変である。
紋次郎は川で身体を拭いている。そこに小太郎(彦市)が偶然やってくる。
「えっ、もう下呂に着いたのか?」と二人の言葉のやりとりでわかった。
そう言えば河原に板塀の囲いがあり、湯気らしきものが流れている。
何の説明もなく急に小太郎が現れて、紋次郎と会話する。偶然と言えばそれまでだが、探すまでもなく向こうからやって来たわけである。
この出会いの展開は原作にはない。それはなぜか。

小太郎の胸の内を語らせるためである。
右腕を負傷した小太郎は、匠の道も閉ざされ自暴自棄になり、酒、女、博奕と江戸で荒んだ生活を送った。

「もともと、大した能もねえのに名人の跡継ぎに生まれたばっかりにずいぶん期待されちまってね。怪我のおかげで気楽になった。てめぇだけのために、面白おかしく生きていこうなんて開き直っちまったもんね。旅人さんの傷とは比べものにならないけど……。」

上半身裸の紋次郎には、いたるところに刀傷が見える。

「体に傷を受けてる者は心にも傷を受けてると言いやすからね。」
「あぁ、そうかもしれないねぇ。北へ向かって行きなさんのかい?」
「へい、そのつもりで……。」
「旅してるといろいろ面白いことがあるでしょう。」
「よくわかりやせんが、明日という日に望みを抱いても裏切られることの方が多いようでござんすよ。」
(テレビの台詞より)

原作ではこの「明日という日に望みを抱いても裏切られることの方が多いようでござんすよ。」の台詞は、お民に対して呟いているものである。この台詞はやはり小太郎ではなく、お民にこそふさわしい。

「旅人さん、その楊枝は何のまじないなんで?」
「ただの癖ってもんでござんすよ。ごめんなすって。」
「達者でね。」
(テレビの台詞より)

前シリーズを踏襲する決まり文句がここで出た。
(後編へ続く)

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Re: 第3話「四つの峠に日が沈む」(中編)

今日、読ませていただいて思うのは
不幸せ者たちの積み重ねドラマなんですね。

お民、女衒の彦市と小太郎、源蔵一家の子分たち、そして紋次郎。
時代の裏街道を歩いてきた者たちが並んでいます。
しかし、歴史って彼らが担ってきたものなんでしょうね。

しかし粋な紋次郎のまわりを見事に脇役たちが、固めていますね。
引き立て役がいるからこそ紋次郎たりえるのでしょう。

Re: 第3話「四つの峠に日が沈む」(中編)

私は30数年前に一度見たきりで、TV版のあらすじは覚えてませんでした。

私はこの原作小説を読んでいて、紋次郎がなぜお民に加担し、源蔵が自分を殺すものと決めて掛かっているのか、釈然としませんでした。

「紋次郎は懐柔策にも応ぜず、威嚇にも屈しなかった。」と書かれてますが、源蔵の家を出る時に「手めえに関わり合いのねえことに、あっしは目を向けねえよう心掛けておりやす。」と言っていたし、そうかなあ?と納得が行きませんでした。

TV版では、柏屋の若旦那を見殺しにしてしまい、それが元でお民が不幸な目にあうハメになったという設定を加えて、このあたりの動機付けをしっかりしているわけですね。
また、お民の体に合羽をかけてあげたりだとか、原作には無い良さが付け加えられているんですね。

当時の私は、前作との比較モード全開で見ており、ブラウン管の前で文句ばかりたれていたためか、そんな良さがあったのには気付きませんでした。
私はこの次の回で見るのをやめ、CSに加入しても「新」はあえて録画しなかったのですが、お夕さんの文章を読んでいると、不思議に見たくなってしまいます。
(ところで、第一回で私をドン引きさせた「首コロン」は、以降も出てきたのでしょうか?)

原作のドンデン返しであった、小太郎=女衒の彦市 を最初に明かしているなら、どんな新たなラストが待っているのか楽しみです。

私信ですが、メール有難うございました。
明日、返信を書きます。
なお、私が現在使用している灰皿は、太田宿の駅弁の釜飯の容器です。

  • 20101108
  • TOKI ♦nhNJg39g
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Re: 第3話「四つの峠に日が沈む」(中編)

小父貴さま、コメントをいただきありがとうございます。

仰るとおり、不幸な者に更なる不幸が重なる展開がほとんどです。
ハッピーエンドというものには、程遠い終わり方ばかりと言えます。

今回も、何となく釈然としないエンディングです。
予定調和が多かったお茶の間時代劇の中、「木枯し紋次郎」は異彩を放つ作品だったのでしょうね。

でも実際の人生、予定調和がないのが事実なんですけど……。


  • 20101109
  • お夕 ♦wikz35BA
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Re: 第3話「四つの峠に日が沈む」(中編)

TOKIさま、コメントをいただきありがとうございます。

原作のほうが良かった作品、ドラマのほうが良かった作品……いろいろありますね。

ストーリー展開では、私としては原作のほうに歩があると思います。
ドラマが勝負できるものはやはり、映像美だと思いますが、TOKIさんはどう思われますか?
それと、なんと言っても、中村敦夫さんのかっこよさですけど。

「首コロン」の件ですが、もちろんストーリー上必要な「賽を二度振る急ぎ旅」では
ありますが、あからさまには映像化していません。
第一話で、不評だったんじゃないでしょうか(笑)。

話は変わりますが、映画「十三人の刺客」では、ラスト近くに「首コロン」、その上「首蹴飛ばし」まであり、唖然としました。
それを思うと、「新……」の第一話は、先を行きすぎていたのかもしれません。(それもお茶の間のテレビドラマで)

太田宿、行かれたんですか?
私も訪れましたが、柏屋があったかは定かではござんせん(笑)。
酒蔵が見事でしたね。

  • 20101109
  • お夕 ♦wikz35BA
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Re: 第3話「四つの峠に日が沈む」(中編)

>ストーリー展開では、私としては原作のほうに歩があると思います。
>ドラマが勝負できるものはやはり、映像美だと思いますが、TOKIさんはどう思われますか?

おっしゃるとおりだと思います。
「飛んで火に入る相州路」
これは紋次郎に直されましたが、オリジナルの小仏の新三郎のまま映像化して、原作の真のテーマ【無宿の渡世人が生涯にただ一度見た夢を、あまりにもあっさりと取り上げられたことに対する激しい憤り】を十全に表現するのは困難な気がします。

「背中を、貸しやしょう」と腰を落としながら【柄にもなく女に親切な自分に、新三郎は呆れていた】。
【こうしてお浅を背負っていることのほうに、充足感を覚えるのであった。】
【背負っているのはお浅かお染か、と新三郎は混濁した意識の中でしきりと迷っていた。】

そして、全てのからくりを知った時【あのお浅がいま目の前にいるお染であることは、どうにも許せなかったのである。なぜなのか新三郎自身にもよくわからなかった。】

このあたりの感情を映像で表現するには、監督や役者に相当な力量が必要とされることでしょう。

ドラマの映像美についても同感ですね。
原作だけ読むと殺伐とした話なのに、紋次郎のあの美しい映像があると、かなり救われます。
「女郎蜘蛛」など、「なんでこのクソババ成敗せんのじゃあ!今まで出てきた中で、一番の悪女やぞ!」と憤懣やるかたないのですが、ラストの夕暮れの池のほとりを歩く紋次郎。
あの逆光の美しい自然美で、かなり癒されます。
(あの池はどこかも、亀岡や南丹市の地図でかなり探しております)

それと音楽がありますね。
登場人物が最後に出自を明かしたり、死んでいったりする時に流れるあの物悲しい音楽。
「女人講」「六地蔵」など、あの音楽で原作が数倍引き立っているように感じます。

「首コロン」、原作上仕方ない場合はさておき、あれを映像で見せると、リアリティと引き換えに後味の悪さが残るので、考えて使っていただきたいですね。

  • 20101110
  • TOKI ♦nhNJg39g
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Re: 第3話「四つの峠に日が沈む」(中編)

TOKIさま、コメントをいただきありがとうございます。

登場人物が心に思ったことをドラマで表現しようとすると、台詞が長くなりますね。
そうなると、展開にテンポがなくなりますから、脚本家も頭を悩ますところかもしれません。
監督もどんな表情を要求すべきか、難しいですね。

芥川さんのナレーションも、人物の気持ちを説明するようなものではありませんし……。

風景の美しさや侘びしさは、紋次郎作品の真骨頂です。
ロケハンは大変だったと思いますが、美しい映像が撮れたときの達成感や喜びはひとしおだったろうと、想像します。
こだわりのあるスタッフ集団でしたから、才能と職人魂が結集した芸術作品ですね。
ただ「新……」になると、そういう情趣が半減されたようで残念です。

おっしゃる音楽……わかります!
私が、サントラ盤で一番よく聴いている曲です。
あのメロディーを聴くと泣けてきそうになります。哀愁漂う名曲で、私も大好きです。

当時の時代劇のBGMは、いかにも……といった感じで、垢抜けていませんでしたが、紋次郎のBGMはパーカッションがメインのもの、メロディックなもの、ベース音が小気味いいものなど、バラエティーに富んでいながらも、一貫性があったと思います。
フィーチャーされた楽器もピッタリでした。

「新……」になりますと、マカロニウェスタン調になったり、安直な曲調だったりで、実のところあまり好みではありません。
BGMひとつで、映像が全く違ったものに見えますから、人間の感覚というのは不思議なものですね。

  • 20101110
  • お夕 ♦wikz35BA
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