紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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第7話「四度渡った泪橋」(後編)

第7話「四度渡った泪橋」(後編)

第7話「四度渡った泪橋」(後編)

(原作 第33話) (放映 1977.11.16)
《死のうと生きようと、一向に構わねえ。十五年もアテのねえ旅をつづけていりゃあ、いいかげん疲れるぜ。これでもう、どこへ行かずともすむ。お蔭で、楽ができるってものよ。
昼顔が綺麗だ……》

茶店の老婆から聞いた伊兵衛の最期の言葉が、紋次郎の頭をよぎる。伊兵衛の言葉なのか、それとも紋次郎自身のつぶやきなのか。
紋次郎は橋の袂の崖っぷちに咲く昼顔を一輪手折る。そして今来た道を無表情で引き返し、友蔵一家を目指す。

テレビ版の紋次郎が友蔵一家に乗り込む理由は、「お清を助けるため」であるが、原作は微妙であり必然性がない。どちらがどうだ、というものでもないが、テレビ版ではもう伊兵衛の印象は薄れている。

友蔵一家に乗り込む紋次郎の姿は、テレビ版も原作も格好いい。
行燈に灯が入る夕刻に親分宅を訪れることは作法にかなっていない。三度笠や合羽もとらず敷居を跨ぐ。一家の若い者が声高に騒ぐのを尻目に、物静かだが凄みのある言動をとる。

「仔細あって、挨拶は抜きにさせて頂きやす」
この台詞は何度聞いても格好いいし、貫禄ある人物でないと似合わない。

原作の台詞は更に格好いい。
「今日の昼間、あっしの連れが友蔵親分のお身内衆の手にかかって、果てたそうにござんす」
「お前の連れだと……?」
「伊兵衛と申しやす」
「そのための挨拶に、罷り越したとでも吐かしやがるのか!」
「へい。ただいまから、伊兵衛を冥土に送ってもらった礼を、させて頂きやす」
(原作より抜粋)

紋次郎は、見も知らない伊兵衛を連れだと言う。冥土に送ってもらった礼……伊兵衛の意趣返しである。生きている者が勝手に考える愚かなことだ、と茶屋の老婆に言ったのに……
他人のために、自ら火の粉をかぶりに来た紋次郎というのも珍しい。

室内での殺陣は「新……」では初めてではないだろうか。
狭い部屋の中での荒々しい動き。コマ撮りはせず長撮りでカメラを回している。紋次郎の動きを追うかのようなカメラワークで、臨場感がある。
テレビ版では「お清さん!」と大声で叫び、子分たちを次々に叩っ斬る。お清はここにはいないようである。最後に残った代貸から友蔵とお清の居場所を訊き出し、紋次郎は宿場外れの小屋に向かう。

小屋の前には槍の使い手「猿太郎」が見張っている。紋次郎は石を投げて木立の中に誘い込む。木に身を隠しながら、攻撃しようという作戦。猿太郎も狙いをつけにくそうであるが槍が飛び、紋次郎の道中合羽が幹に縫いつけられる。
猿太郎が槍を抜きに近づくが、紋次郎は長ドスを振り回して応戦。しかし合羽がこのままだと身動きとれない。
振り回した刀が槍の柄を斜めに切り落とす。猿太郎はその鋭利な柄の先端を、紋次郎にめがけて繰り出そうとするが、一瞬速く紋次郎の長ドスがうなる。猿太郎は倒れ、紋次郎の道中合羽は槍の柄からスルリと抜ける。

短い間のかけ引きだったが、なかなか凝った演出だった。ふと、市川監督がよくやる手法。人物が部屋から出るとき、着物の端っこが挟まったまま障子が閉められ、その後スルッと引っ張られる映像。何かが終わった後の余韻というか……。

小屋に入ると友蔵と逢い引きしていた女が紋次郎に気づく。何と女は、紋次郎が助けようとしていた「お清」だった。紋次郎の驚きを尻目に、お清は冷めた口調で言う。
「紋次郎さん、何しにここに来たんです?あなたには関わりのないことじゃないですか。」

友蔵は、市助たち兄弟が訴人に走る度に知らせに来たのはこのお清だ。その度に金をせしめた大した女だ、と顛末を話す。そして、これでお前が俺に言いがかりをつける筋合いはなくなったはずだ、と言い放つ。

「それでもあっしは、おめえさんを斬らなくちゃあならねえ」
「おめえ、一体誰のために俺を斬ろうってんだ!?」
「山百合の為でござんす」
「たわけたことを抜かしやがって!」
(テレビの台詞より)

友蔵が壁に掛けてあった長筒を持ち出すのと同時に、紋次郎の長ドスは友蔵の体を貫く。銃声が鳴り響き、戸口にいた「やまんば」に流れ弾が命中する。

「おっかさん!」
お清が叫ぶ。

なんと「やまんば」はお清の実の母親だったのだ。「やまんば」を抱き起こしすがるお清。
急展開の連続である。話の複雑さについていくのがやっと。
義兄弟や自分の夫を金のために売ったのがお清。そして何かと怪しい動きでからんでいた「やまんば」がお清の母親。

「お清、何でおらを捨てて山を下りていっただ?」
と苦しい息の中「やまんば」はお清に尋ねる。お清は、山を下りて人並みの暮らしをしたかった。いつまでもおっかさんと暮らしていたらわたしも「やまんば」になってしまう。私はお金がほしかった、と答える。
「ごめんよ、おっかさん、一人で寂しかったろう、堪忍しておくれ」とお清は母を抱く。
「もういい……やっとおめえが……おらの許に戻ってきてくれただ……」
「やまんば」と呼ばれ続けたお清の母親は、自分を捨てた娘の胸で静かに息を引き取る。

「おらのたった一つの大事にしていたもんも、おらの手から離れていっただ!」と紋次郎に言った大事なものとは、娘お清だったのだ。
原作にはない、もう一つのどんでん返しである。

親子であるが故の憎しみや嫌悪もあったろうが、最後になってお互いの情愛が通じ合うという親子ドラマが一つ終わった、

第7話「四度渡った泪橋」(後編)

原作でのお清の言い分には開いた口が塞がらない。
「江戸で暮らしてみたいと、思っていた」
「貧乏暮らしが、いやだったんだ。生まれたときから一度だって、小判を拝んだことがないという暮らし……」
「おらは器量よしだ」
「誰だってそう言う。おまえは甲州一の別嬪だと……、江戸にでも生まれていたら、きっと玉の輿に乗ったことだろうって……」
「器量がいいのは、女の宝だ」
「甲州一の器量よしだっておらが、どうして百姓の女房でいなけりゃあならねえんだ。どうして野良着だけの貧しい暮らしで、我慢していなけりゃならねえんだ」
「器量のいい女には、それに相応しい生き方がある」
「梅吉、市助、与作、捨吉、みんな死んじまえば、おらはもう自由だ。百姓女でいなくても、すむようになる」

身勝手なナルシストの極みと言えるが、現代にもこういう女はいる。美貌を武器にしてのし上がろうとする……美醜で人の値打ちを決めようとする……笹沢氏が執筆したときより今の方がその傾向が強いのではないだろうか。
時代小説の形をとっているが、これは明らかに現代小説である。

テレビ版のお清も理由はどうであれ、夫や義理の兄たちを金で売ったのだからそう変わりはない。

「私のことを許してくれないでしょうね。」と問うお清に答える中村紋次郎。

「おめえさんを責めるには、貧しい村の哀しい話を、見過ぎてきたようでござんすよ」

貧しい村の哀しい話……その通りである。「木枯し紋次郎シリーズ」で視聴者も、見過ぎてきた。紋次郎はお清を責めないというのか。

「でもお清さん、おまえさん一つだけ大嘘をつきなすったね。女が本当に哀しいときは泪が出ねえなんて、今の泪は偽りだと言うんですかい」
指摘されるほど、お清は泪が出ていないのは残念。ここは号泣して欲しい。

「あのとき、あなたに見透かされて私は怖かった。だから咄嗟にでたらめを言った。でも、肌をさらして遠くへ連れてってくれと頼んだ私は必死だった。なぜ紋次郎さん、それがなぜ、わからないんですか?なぜ、なぜなの?」
「あっしには、言い訳なんぞはござんせんよ。」

ここで「言い訳なんぞ……」の台詞が出たが、お清の問いに対しての答えにはなっていない。
遠くへ連れて行って欲しい……?四人を売った金を懐にして、紋次郎と逃避行?
それとも自分に嫌気がさして、生まれ変わるために遠くに行く?
もともと山暮らしが嫌だから、母親を捨てて村に下りてきたはずなのに、その境遇にも嫌気がさしたというのか。
お清の真意がわからない。
その点原作のお清のほうが単純でわかりやすい。

原作でもこの「言い訳なんぞ……」を口にしているが、内容は大分違う。相手は茶屋の老婆である。

「だがな、いってえ誰のために、紋次郎さんは急にやる気になったんだね」
「誰のためでもござんせん」
「そんなことはねえだろうよ。市助のための意趣返しか」
「いや……」
「じゃあ、中津村や初狩の人のためを思ってかね」
「とんでもござんせん」
「伊兵衛って渡世人のためにかね」
「いや……」
「だったら、どうして気が変わったのか、言い訳でもいいから聞かせてもらいたいね」
「あっしには、言い訳なんぞござんせん」
「そうかい」
 (原作より抜粋)

紋次郎は友蔵一家には一応、伊兵衛のお礼参りだと言って一家に乗り込んでいる。しかし、友蔵には「昼顔のためでござんす」と答えているので、老婆に伊兵衛のためではないと言っていることは頷ける。

それでは「昼顔」とは何を表しているのだろうか。原作では紋次郎と伊兵衛とは何の面識もなく、繋がりは昼顔が美しいと感じたことだけ。

一方テレビ版では、伊兵衛の生きざまと山百合にかける想いを紋次郎は静かに聞いている。
最終的には「お清」を助けに行くのが殴り込みの大部分となり、「それでもあっしは……」と付け加えのような感じとなってしまっているのは残念な気がする。

原作は伊兵衛とのしがらみがなく、「昼顔」のみの繋がりだけにその比重は大きい。
昼顔は紋次郎の本来の姿なのではないだろうか。紋次郎の生きざまは周知の通りであるが、私は後天的なものであると思っている。生きざまということは、生きていく上での方策であるので当然後天的と言えよう。
従って紋次郎の本質ではないのである。紋次郎の本来の姿はその逆……姉のお光と似通っているはずである。
見返りのない無償の愛であり、真情の発露なのである。
だから誰のためでもない、自分自身の正直な気持ちに従ったのである。
本来の紋次郎の姿が昼顔を美しいと想った瞬間、蘇ったのである。本来の自分の姿に戻るアイテムが、昼顔だったのであろう。

さて、テレビ版のお清は四度目の泪橋を渡る。「やまんば」と呼ばれた自分の母親の葬列である。原作ではお清の母親は出てこないので、当然葬列もない。
四度目に用意されたのは、お清の母親なので、次男と三男を一緒に訴人に走らせた謎がここで解ける。

無表情で位牌を胸に、真っ直ぐ歩くお清と紋次郎はすれ違うが、お清は全く紋次郎に視線を移さない。逆に紋次郎の方がお清の姿に目を留める。
お清はこの後どんな生き方をするのだろうか。

その後紋次郎は、伊兵衛を葬った土饅頭に墓標を立てる。
『伊兵衛の墓』……墨色鮮やかな達筆である。紋次郎が自ら書いたか?としたら、かなりの腕前であり文化人で
ある(笑)。
墓前には白い山百合。

「伊兵衛さん、山百合どころかこれを使う日まで生きていられるかどうか、あっしにはわからねえんでござんすよ」
(テレビの台詞より)

紋次郎は楊枝を飛ばして白髪染めを木の幹に留める。白髪染めの黒い飛沫が百合の花を黒く染めるエンディングは、なかなか渋い演出である。
原作ではもちろん昼顔に楊枝を飛ばし、川に流す。

白鳥浩一さん、お疲れ様でした……と言うぐらい、凝りに凝った脚色でカメラワークも斬新なところや計算されたところもあり、意欲的な作品だった。

「見所満載、お色気いっぱい、アッと驚くどんでん返し。メランコリックなギターの音色に、あやしい「やまんば」地を駆ける。
山百合に、かけた想いは己の姿。明日は我が身か誰の身か。
次週、新木枯し紋次郎をご期待ください!」と言ったところか……。









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Re: 第7話「四度渡った泪橋」(後編)

こういうテイストを加味していたのですか。
「甲州路」で紋次郎の言った「土地が貧しいと悲しい話も多いもんだと思いやしてね。」のセリフは、中村敦夫さんのセリフでもあったわけですね。

昼顔が季節上無理だから山百合になった、というのを読んで、「ラストのセリフ『山百合のためでござんす』になるのかなあ、紋次郎には花屋で売ってそうな花より、もっと地味な野草のほうがいいんだけどなあ」と思ってましたが、案の定でしたか。

もっとも、老婆を追い回して締め上げる紋次郎ですから、いっそ薔薇とかダリアにしてくれたほうが、「これは私の知ってる木枯し紋次郎とは同姓同名の、別の人のお話なんだ」と割り切って観られるので、そっちの方がいいかもしれません。(笑)

この原作を読んで一番印象に残るのは「管槍の猿太郎」です。
朱塗りの管槍を持ち、瓢箪を腰に提げ、朝から酒を飲んで猿のようなクシャクシャした顔。
この男だけでドラマが作れそうなほど、キャラが立ってます。
また「管槍」というものにもひどく興味を持ちました。
現代でも刃の長さが50センチ以上あるドリルを使わないと、1mもの木のパイプを作成することは不可能なのに、当時の工作技術でどうやって作っていたんだろう?と。
また、普段は1mなのに2mの伸ばして使うというのも、「相手を突いても、ラジオのロッドアンテナを押したみたいに縮むだけじゃないのか?」と思い、調べたことがありました。
が、「金属の筒を握り、中の槍をピストン運動で素早く繰り出す武器」というのしか出てきませんでした。

テレビの猿太郎は、本当に猿みたいな顔で、伸縮自在の朱槍を使っていたのでしょうか。

  • 20110319
  • TOKI ♦nhNJg39g
  • URL
  • 編集 ]
Re: 第7話「四度渡った泪橋」(後編)

TOKIさま、コメントをいただきありがとうございます。

山百合の件は、絶対ご指摘があると思いました。
調べてみますと山百合は日本特産のユリで、和名のいわれは「山中に咲くから」……そのまんまです(笑)。
かなり背丈も大きく花もユリ科では最大級、日本の自生の花には珍しく甘く濃厚な香りがする……と記述されています。
紋次郎の作品としては、やはり華やかすぎますね。
放映が秋ですので「あざみ」「竜胆」「野菊」あたりが妥当かと思うのですが。

さて「管槍の猿太郎」ですが、テレビ版ではお猿さんよりゴリラさんに近い感じで、かなりエキセントリックな雰囲気です。酒好きというより酒乱に近く、むやみに槍を使いたがり、狂気をまき散らす人物です。

また槍は管槍ではなく普通の槍で朱塗りでもありません。
この管槍……私も調べましたが伸縮するということは説明されていませんでした。原作では1メートルが2メートルに伸びるように書かれていますね。
調べたものでは、柄に金属製の管を通し、前の手でその管を握り管を通して突くとされています。摩擦が少ないため突きのスピードが加速されます。
この管の長さは、一握りほど(約10センチメートル)ということですから、原作のものとは大分イメージが違います。
笹沢氏がいう管槍は、対戦相手によって臨機応変に槍の長さを変えられるという利点があるようですが、テレビ版ではもっぱら槍を投げて使う方に重点が置かれていましたので、管槍については完全にスルーでした。
実際再現するのが難しかったのかもしれませんね。お金も時間も無かったでしょうし……。

テレビでは、猿太郎という名前すら呼ばれなかったように思います。
「やまんば」対「猿太郎」、どちらもなかなかのエキセントリック勝負です(笑)。

  • 20110319
  • お夕 ♦wikz35BA
  • URL
  • 編集 ]
Re: 第7話「四度渡った泪橋」(後編)

お夕さん お邪魔いたします。

この第7話は、正直、お夕さんに伺った原作の方でTV化して欲しかったように思いました。

敦夫さんが監督された「獣道」のほうは、とても好きな作品ですが、
「泪橋」では、お夕さんがおっしゃるように、お清さんが本当はどうしたかったのかが良く分かりませんでした。
なんとなく…紋次郎さんに…堕ち続ける自分を助け出して欲しかったようにも感じましたが。


今回、こちらにおじゃまさせていただいたのは、

『紋次郎の生きざまは…紋次郎の本質ではないのである。紋次郎の本来の姿はその逆……姉のお光と似通っているはずである。見返りのない無償の愛であり、真情の発露なのである』
お夕さんの一文に感銘を受けたからでありました。

それこそが「木枯し紋次郎」テーマであり、私たちが紋次郎さんを愛して止まない理由だと思うのです。

殺戮を繰り返す紋次郎さんと、小さな一つの命を救ったお光さん。対照的な行いでありながら、本質的には同じであること。
紋次郎さんが旅を続けるわけも、きっと、ここにあるのだと思います。

なぜか…涙がこぼれてしまいます。




Re: 第7話「四度渡った泪橋」(後編)

白さま、コメントをいただきありがとうございます。

いつも奥深いコメントをいただき、再考させていただいております。

紋次郎の本質……もしかしたら、これは誰でも同じように当てはまるのではないか、と思います。

「性善説」を深く理解はしていないのですが、本来お光や紋次郎のように惻隠の情が誰でも備わっていると思うのです。
ただそれが、生まれた環境や育ち方、周囲の人間関係の違いで、それぞれの人間性が形成されてしまうと思うのです。

紋次郎の生き方は、そうならざるを得なかった訳で、背負ったものが違っていたら、全く変わっていたと思います。

紋次郎は苛酷な旅を続けます。続ければ続けるほど、虚しく哀しく報われないことが積み重なります。
しかしそんな中でも、紋次郎が見せる優しさや節度ある言動、愚直さに、私たちは忘れかけていたものに気づきます。

考えれば考えるほど、この作品の凄さを感じます。

  • 20110808
  • お夕 ♦wikz35BA
  • URL
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