紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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第8話「念仏は五度まで」(中編)

第8話「念仏は五度まで」(中編)

第8話「念仏は五度まで」(中編)
(原作 第34話)(放映 1977.11.23)

一方徳蔵は一人で林の中を歩いているが、誰かの気配を感じる。徳蔵の足音の他に微かな足音が聞こえるのは確かである。
急に徳蔵の目の前に現れたのは三度笠姿。シルエットだけなので誰かはわからないが、紋次郎以外で三度笠というと見当はつく。
しかし……なぜ?……どのようにして?

するとどこからか竹串状のものが飛んできて、徳蔵の片眼に突き刺さる。
突き刺さる様子は合成処理……必殺シリーズが頭をよぎる。
悲鳴をあげて逃げる徳蔵は追い詰められ、背中から刀で刺される。
血しぶきが画面に広がる……これも何となく安直な感じ。

今までの一連の殺しはこういう手順であったのだが、今ひとつからくりがわからない。

テレビ版の紋次郎はこの後、野宿先の廃屋で濡れ場を目撃する。
原作ではもっとこの場面は早い。先に紋次郎はこの廃屋にいたのだが、そこにやって来たのは信州一の長者と言われる玉井屋六兵衛の後添え「お藤」と手代の「国太郎」。旅籠を抜け出してここで逢い引きということである。上諏訪の屋敷に帰ったらもうこんなことは出来ないんだから……ということだろう。

お藤役に「赤座美代子」さん。この女優さんも紋次郎シリーズの常連さんである。前シリーズでは第14話「水神祭に死を呼んだ」と第30話「九頭竜に折り鶴は散った」に共演。
今回で長谷川さんと同じく3回目の出演となる。いつもながら着物姿がよく似合う女優さんで、安心して見ていられる。
「新シリーズ」の見せ場でもあるお色気シーンだが、実は原作の方がもっとあからさまな性描写である。(そちらに興味がある方は原作をご一読ください)

「年増女の凄絶な美しさ」(年増と言っても25歳くらいだが)「寒気がするほどの淫蕩さ」「睦み合うことに、執念を燃やしているみたい」「そこには業火が見られた」
「まさに狂態」と様々な表現が並んで記述されている。

赤座美代子さんの演技が……というより、キャスティングとしてもっと肉感的な女優さんの方が良かったのではとも思う。赤座さんはどちらかというとキリッとした感じで、姐御肌。色情狂いというタイプではない。

原作とテレビ版の大きな違いは、逢い引きのあと、紋次郎がこの二人に見つかってしまうところである。原作では紋次郎がいることを、最後まで気づかずに二人は廃屋を後にする。
テレビ版では気づかれてしまい、お藤だけが残って紋次郎と言葉を交わす。なぜか紋次郎は、他人の身の上話を聞かせられやすい。
相づちを打つこともなく、場合によっては寝てしまっていることもある。根掘り葉掘り詮索されないから、話しやすいのかもしれない。
原作では、お藤の境遇が記述されてはいるが、紋次郎に打ち明けることはない。

どうしようもない……自分で自分がどうにもならないのだから。
それでも5年半前には、博奕打ちを亭主に持って苦労もしたが耐え忍んでいた。しかし急に、そんなことがばかばかしくなって何もかも放り出してしまった。
一度しかない短い命を、自分のためにだけ好きに生きたい。魔が差した挙げ句の果てが、信州一の長者の後添え、男狂いの明け暮れ……でも後悔なんてしていない。
どうせ明日という日は誰にもわからないのだから、せめて今日だけでも生きてるという証が欲しい……。

紋次郎はお藤の話を聞いて、「もしや……」と口にするがそれを飲み込む。
話は友吉が捜している母、「お縫」と符合するのだ。亭主が博奕打ち、姿を消してから5年半。しかし紋次郎は、それ以上に尋ねることはしない。
そして口にした言葉は「人にはそれぞれの生きざまがあるんでござんすよ。」だった。

それぞれの生きざまがあるのだから、お藤の生きざまの善し悪しは問わないというのだろうか。
どうせ明日という日は誰にもわからないのだから……せめて今日だけでも……紋次郎の生きざまと同じではある。
しかし明らかに違うのは、生きてるという証である。
お藤の場合は男との享楽であるが、夜も日も明けないというのなら、これはいわゆる依存症とも言える。

強迫性を持ち、心の空虚感を埋めるためために、性衝動を自分でコントロールできなくなり、その行為にとりつかれるという症状である。
まさしくお藤そのものである。しかし結局、その行為では心の空虚感は癒されない。そのためまた、誰かと性行為……この繰り返しである。

お藤には生き甲斐がなかったのだろう。亭主のため、我が子のため、いつも自分がずっと我慢してきた。その上亭主は目を患った。
その生活には喜びがなく、自分の苦労に報われることもなく、心理的に苦しいときふと魔が差した。
一時的でもその苦しさから解放されたのだろう。そして転がるように、依存症は重度化していったのに違いない。

第8話「念仏は五度まで」(中編)

「旅人さん、冷たいお人。あんたの胸の中も空っ風だねえ。」

お藤は紋次郎の心の空虚感を見透かしている。自分と同じものを感じるのだろう。
しかし紋次郎は、心の空虚を満たすために何かに依存することはない。そもそも空虚さを満たそうという気がないのである。空虚は空虚として受け入れる……心が満たされるなどというものは、初めからないのであるから人には求めない。逆に、人には関わらない。
ひとつだけ紋次郎に依存症があるとするならば、それは楊枝くわえることだろう。楊枝をくわえることで、心の安定を保っているのかもしれない。

お藤は旅籠に一人で戻ったが、先に帰ったはずの手代の国太郎はまだ姿を見せていなかった。
国太郎はやはり、帰途の途中で何者かに殺されていた。紋次郎はその亡骸を見届けてから、河原に腰を下ろす。
川面に小石を投げ、珍しく他人のことを考えている。お藤の言葉を思い出しているのだ。
「あたしは後悔なんかしてないよ。どうせ明日という日は誰にもわかりゃしない。だったらせめて今日だけでも……空しいけどね。冷たいお人……あんたの胸の中も空っ風だね。」

原作でも河原に腰を下ろして小石を投げている。しかし考えることはお藤のことではなく、国太郎のことである。お藤からは身の上話を聞かされていないので当然だが、国太郎があっさり死んだことに儚さを感じている。

主人との不義密通は死罪であるが、国太郎は発覚する前に殺された。死罪を恐れながらも不義密通をやめず、罪に問われたわけでもないのに、あっさりと殺される。
しかし、そんな滑稽ななこともゆとり持っている人間の場合だと、胸の内で紋次郎は呟いている。

「生きることに、まったく余裕がなければ、不義密通に現を抜かしたりはしない。また、あっさり殺されることもない。生きるために必死になって戦い、何とか危機を脱しようとするだろう。
 ちゃんとした明日がある人間に限って、命を粗末にしたがるのだ。明日があるという保証もない紋次郎だが、何としても今日だけは生き抜こうとする。まるで、逆であった。
命が惜しいわけでもない。死ぬときが来たら、いつでも死ぬという覚悟もできている。だからこそ、生きようと努めるのだ。同時に明日のない身で、今日を全うしようとすることが、ひどく空しいのであった。」
(原作より抜粋)

お藤は、明日という日は誰にもわからないんだから、今日を自分の好きに生きる……と言う。不義密通という大罪であっても構わない。今日が良ければそれでいいという刹那的な生き方である。
しかし紋次郎は死ぬときが来るまで、精一杯生きようとする。今日を生ききることに努めるのである。紋次郎はいつも、今日が自分の最期の日だと思って生きている。

これはなかなかできることではないだろう。明日のない身となれば普通は、自暴自棄になって欲望のおもむくままになるだろう。どちらかというと人はお藤の生き方を選びがちかもしれない。

紋次郎の生きざまは、まさしく仏教の教えそのものである。
蓮如上人の『白骨の御文章』……「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」を彷彿とさせる。

お藤と紋次郎の生きざまは、真逆とも言える。しかし紋次郎は、そんなお藤を批判しない。前回「四度渡った……」のお清に対しても、紋次郎は一定の理解を示している。
実のところ紋次郎が人を批判したり、咎めたりするということは滅多にあり得ないのだが……。
「人は人、あっしはあっしと思って生きておりやすんで」とお志乃に答えたのは、前シリーズの「木枯しの音に消えた」であった。
世間一般の情に、流されることがない確固たる自分がいる。しかし、それを人には当てはめないし、求めることもない。

河原で再び彦三郎と友吉に出会う。紋次郎は彦三郎に待ち伏せを知らせてくれた礼を告げ、立ち去ろうとする。
彦三郎に紋次郎は道連れを頼まれるがあっさり断る。そして、友吉が紋次郎の背中に「おじちゃん!」と叫ぶのに、振り返ることもなく歩を緩めることもない。

テレビ版の紋次郎は気づいているはずである。友吉が捜している母親は玉井屋の女房「お藤」であることを……。だがそれを教えたところで、どうにもならないことも知っている。だから敢えて関わらない。
この場を早く立ち去りたいのだ。

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Re: 第8話「念仏は五度まで」(中編)

前編へのコメント、書き遅れたのでこちらで併せて書かせていただきます。

原作を読んで「盲目・子連れ」の渡世人というのはさぞかし大変なんだろうなあと思いました。
この男の生き様に、よりスポットを当てているようですね。
原作どおりの、みすぼらしい身なりだったんでしょうか。

また原作では、「犯人は紋次郎!」と色めき立ってるのは役人とその周辺だけで、大衆は冷静に見定めてますが、これはテレビではどうだったんでしょう。

初期股旅小説や初期紋次郎原作では、かなりのエロチックな描写がありました。
それは段々薄れていたのですが、この作品と次の作品は、再びエロチックな描写が多くなってますね。
特にこの回は、事件の根幹がそのことですから、官能度はトップクラスと言っても良いでしょう。

これ、テレビ映像でどの程度表現できたのか気になります。
また、「この回をお夕さんが書く時には、どう書いて良いのか悩むだろうなあ」などと、ひそかに心配いたしておりました。(笑)

  • 20110403
  • TOKI ♦nhNJg39g
  • URL
  • 編集 ]
Re: 第8話「念仏は五度まで」(中編)

TOKIさま、コメントをいただきありがとうございます。

盲目だけでも大変なのに、子連れですからね。
紋次郎の作品の中で、子連れ旅人は何人か出てきましたが、親権者が盲目というとこれはきついです。
渡世人は賭場で稼がないといけませんので盲目というのは致命傷ですが、テレビ版では超人的な聴力を見せ、ある程度納得はさせています。
身なりのひどさはさほど感じませんでした。紋次郎程度です(笑)。

「犯人は紋次郎!」……テレビ版では徳蔵が二足草鞋ですので、無理矢理でも紋次郎に嫌疑をかけるような雰囲気ですが、視聴者は「絶対違う!」とわかっています。
大衆としては、居酒屋の親爺ぐらいですか、紋次郎の噂をするのは。

エロチックシーンの件……。
もともと笹沢氏は、官能ミステリー小説も書かれていますので、こういう展開もわかるのですが、紋次郎シリーズも終末期になると人生を達観したかのような趣になりますね。

ご心配通り(笑)、苦手です。
テレビ版ではさすがに原作通りにはいきませんので、お藤の男狂いの程度は大分薄まっているようには思います。
自由奔放に生きることに誰もが憧れを持つでしょうが、「人生、プラスマイナスゼロ」と私は思っていますので、棺桶に入る頃には相殺されるんだと思っています。

振れ幅が大きいか小さいかが、各人の生き方の違いかもしれません。
「無事これ名馬」か「波瀾万丈」か……。
でも、どちらも尊いと思います。

  • 20110403
  • お夕 ♦wikz35BA
  • URL
  • 編集 ]
Re: 第8話「念仏は五度まで」(中編)

大変大変ご無沙汰しております。
久しぶりにお伺い致しましたが、相変わらず見事な紋次郎描写と目の覚めるように美しい写真に、紋次郎ファンの方々がお集まりになっていらっしゃるのですね。

それにしても一話一話の分析が見事で感服します。

盲目の渡世人ですが、確かどこかの回に鰐淵晴子とジョー山中が夫婦役で鰐淵晴子が盲目だったというような設定の回がああったのを思い出しますが、どこでしたっけ?

お夕さんと違ってすぐ忘れてしまうので困ったもんです。(^^;;

Re: 第8話「念仏は五度まで」(中編)

九子さま、ようこそおいでくださいました。
また、コメントをいただきありがとうございます。

九子さんの仰る作品は「獣道に涙を棄てた」ですね。
敦夫さんが初監督した作品で、キャスティングの妙やダイナミックな殺陣など、話題を呼びました。

鰐淵さんを盲目とすることで、より魅力的な瞳が強い印象として残りましたね。

私も最近忘れっぽくなって、都合の悪いことから忘れています(笑)。

  • 20110416
  • お夕 ♦wikz35BA
  • URL
  • 編集 ]
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