紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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日々紋次郎「飯盛女」

日々紋次郎「飯盛女」

日々紋次郎「飯盛女」
紋次郎兄貴が生きた時代、宿場には数多くの飯盛女がおりやした。作品にも大勢の飯盛女が出てきやす。
テレビ版で一番印象的だったのは、「木枯しの音に消えた」のお志乃さんでござんしょう。
紋次郎兄貴が若い頃、手傷を負って転がり込んだ源左衛門の娘、お志乃さんが売られたのは玉村宿でござんした。
この玉村宿は、安政6年には飯盛旅籠が33軒、平旅籠が6軒ということでござんしたから、なかなかの繁栄ぶりだったと推察できやす。

「笛の流れは三度まで」(原作名:「笛が流れた雁坂峠」)では、宿場の女郎たちが集団で逃避行しやす。
「女郎にはたった一言」では、身請けされた女郎お秀が出てきやす。
「九頭竜に折鶴は散った」では、三国湊のお春の身請けを頼まれやす。

飯盛女……江戸幕府法令では「食売女」と記され、本来は旅行者の宿泊や食事の世話をするというものでござんした。
しかし実態は客相手の売春婦でござんす。
呼び方もいろいろござんして、「茶立女」「おじやれ」「留女」「出女」「客引き女」「宿場女郎」などとさまざま。

川崎宿、神奈川宿の史料によりやすと最年少は神奈川宿では八歳、川崎宿では六歳ということでござんす。
さすがにこの歳で客をとるということはありやせんが、下女として下働きや子守をし、年頃(14~15歳くらい)になると客相手をいたしやす。
一応養ってはもらえるとはいえ、こんな幼少の頃から苦界に身を沈めるという現実は、やはり可哀相なもんでござんす。
日々紋次郎「飯盛女」

日々紋次郎「飯盛女」

*鳥居本宿 上品寺(じょうぼんじ)の梵鐘

七代目、法海坊が江戸を托鉢して作った鐘。花魁などからの喜捨もあり、鐘には明和6年(1769)の年号や遊女たちの名(花里、花扇姉妹の名)が刻まれている。
江戸に出て托鉢を始めたのが14歳の時。釣鐘を大八車にのせて、中山道をたどって上品寺に帰ってきたのが25歳。法海坊は、苦界の遊女たちの相談にも乗ったと言う。


八歳の幼女「おき」について「請状」の史料がござんす。「請状」というのは今でいう「身元証明書」。
この「請状」にはパターンが一応決まっておりやした。

1.本人氏名  2.生国  3.人主(実親・養親)  4.年齢  5.年季(奉公期間)  6.給金  7.奉公理由
8.奉公契約条件  9.宗旨  10.その他

末尾には親、口入人、本人の署名が必要でござんす。

「おき」の「請状」によりやすと、実親は越後の国の百姓で天明の大飢饉のため年貢が納められず、一家離散に追い詰められやす。
中山道追分宿まで来やしたが金がなくなり、一家は路頭に迷いやす。そこで追分宿の旅籠屋に、両親は実の娘「おき」を預けることにしやす。
「おき」の年季は十一年間、給金は二分二朱。現代に換算いたしやすと5~6万円程度……かなり安いといえやす。
「おき」には条件がつけられておりやした。抱主が気に入らなければほかの旅籠屋に売ってもよい……これを住み替え、蔵(鞍)替えといいやす。
全くの商品なんでござんすね。
もし「おき」が死去した場合は当地に葬り、両親には知らせる必要はないということも記されてあり、身寄りのない宿場女郎の悲哀を感じやす。

ただ救いといえば「妻として娶る者がいて、本人が承知すれば希望を叶える」という文言があったことでござんしょうか。

この「おき」さんは、どんな人生を歩まれたんでござんしょうねえ。身請けされていればようござんすが……。

実の娘を売るなどと、とんでもない……というのが普通でござんしょうが、当時の百姓や下層に生きる者たちの窮乏ぶりは想像以上。
一緒にいたら飢えて死ぬだけ……それなら苦界であるが衣食住は保証されるからと、自分にも言い聞かせたんでござんしょうねえ。


この飯盛女をおく旅籠を「飯盛旅籠」と呼び、普通の旅籠「平旅籠」と区別いたしやす。最も平旅籠であっても、宿主に頼めばどこからか調達してくれるとか……。
どこの宿場にもほとんど「飯盛旅籠」があったそうでござんすが、例外もあったようで……。

東海道では箱根、舞坂、原、江尻、鞠子、掛川、荒井、坂の下、土山、水口、石部には飯盛女がいなかったと申しやすが、その実は大違いで、どの宿場にも隠れ飯盛はいたようでござんす。

当初、幕府は伝馬宿として四宿、「品川」「板橋」「新宿」「千住」には、経費負担が大きいので公娼設置を認めておりやした。
しかしながら、この四宿以外でも私娼が生まれ、風紀の乱れが目に余るようになり、万治2年(1659)に道中奉行から私娼をおくべからずというお達しが出やす。
ところがいくら厳禁としたところで、もぐりの娼婦は増える一方。
そこでとうとう享保3年(1718)東海道の宿駅の旅籠に、1軒につき二人ずつ飯盛をおくことを許可しやす。衣服は木綿とし華美にならぬよう、また許可以上に人数の増えぬように、とその後何度もお達しが出ておりやす。

旅人の中でも、うるさい飯盛女がいない「平旅籠」を希望する者もおりやした。
すると抜け目なく平旅籠が放棄した飯盛女の数を譲り受け、多数の飯盛女をおく娼家さながらの旅籠も出てきたといいやす。
また下女という名目であれば、何人でも置くことができやすので、禁令はあってないようなものだったようで……。

さて前述いたしやした「おき」は、八歳という幼女でござんしたが、普通飯盛女の年齢は15~25,6歳くらいで、二十歳前後が一番多かったということでござんす。
「おき」は二分二朱という値が付けられておりやしたが、相場はどうだったんでござんしょうか。
給金は年代や地域差、当人の年齢、奉公期間、美醜・体格、その他の条件によって違いがござんした。

郡山宿では、つる13歳(文政)11年1ヶ月で14両、とわ18歳(慶応)5年6ヶ月で55両という史料がありやす。まさにこれは人身売買でござんす。
その上、連日何人もの客をとらされるんでござんすから、人としての権利など全く認められておりやせん。

前述いたしやしたお志乃さんは7歳のときに玉村宿に身売り、代金は四両、年季は15年と記述されておりやした。これは高値だということで、武士の娘という肩書きで一両ほどの上乗せだとか。

この宿場女郎の玉代でござんすが、宿ごとに四百文~五百文などの値がついておりやした。
「東海道膝栗毛」では、二百文が標準となっておりやす。
二百文……換算いたしやすと5000~6000円。哀しい値でござんす。

日々紋次郎「飯盛女」

日々紋次郎「飯盛女」

*伏見宿の「女郎塚」 

伏見宿は10軒ほどの遊女屋があり、遊女達が自らの手で土を運び、身寄りのない遊女や飯盛女を弔うために塚を作ったと言われている。
塚の上には56体の石仏が祀られている。 



街道にある寺院の無縁女郎塚や無縁墓に記された年齢は、病死、自殺とも18歳前後が最も多いということでござんす。
宿場の享楽的な繁栄の陰には、名も無き哀しい女たちの短い命が、幾重にも折り重なっていたんでござんしょうねえ。

「峠に哭いた甲州路」での紋次郎兄貴の台詞を思い出しやす。

「土地が貧しいと、悲しい話も多いもんだと思いやしてね……」

へい、御免なすって。

《参考文献》
  
『宿場と飯盛女』 『宿場』 『宿場と街道』 『時代風俗考証事典』






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Re: 日々紋次郎「飯盛女」

子供の頃は「花魁」「芸者」「舞妓」「女郎」の区別がよくわかりませんでした。(笑)

「酌女」というのもよく登場しますが、小仏の新三郎シリーズを読む限りでは、これは水商売であって、娼婦とまでは行かないようですね。

14になったら客を取らされて…って、この頃は数え年だから、今で言うと小学校六年か中学一年ですよね。
なんと痛ましい…。

テレビ版ではカットされてましたが、「木枯しの音に消えた」原作では、15になったばかりの少女の喘ぎ声が鮮明に描写されてます。
これ、児童ポルノ法にひっかかって出版規制されたりしないことを願っております。(笑)

なお、渡世人は宿場女郎を買ったりするのか、ということについてですが、紋次郎や新三郎はストイックだから、買ったりすることは考えられないですね。
「見返り峠の落日」原作の、北風の伊之助もストイックな感じですが、月に一度宿場女郎や飯盛り女を抱いていたようでした。

  • 20110625
  • TOKI ♦nhNJg39g
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Re: 日々紋次郎「飯盛女」

TOKIさま、コメントをいただきありがとうございます。

『宿場と飯盛女』によりますと、客帳に誰が誰を客にしたかが記されています。
一日に5~6人の客を、やはりとらされていたようです。

中には馴染みの客がいたようで、同じ名前が何度も出てきたりします。

一日に何人もの客を相手にしたので、性病を煩う女郎もたくさんいたとか……。

女性にとっては、哀しい歴史だったんですね。

「雪に花散る……」での紋次郎の台詞、
「女を抱いちゃあ、ドスを抱いて寝ることはできやせん」
コレは名言でしたし、正しい行動でした(笑)。

  • 20110625
  • お夕 ♦wikz35BA
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Re: 日々紋次郎「飯盛女」

お夕さん、今晩は!、

この綺麗な傘の下で、飯盛り女の哀れな歴史を語るお夕さんの凛とした姿がみえるようです。

一時期日本の社会現象といえた「援助交際」で遊ぶお金が欲しいとか、
ブランド品が欲しいとかでいとも簡単に性を売っていた少女たちと比較してみたりしております。

紋次郎物はまた読みに参りますので今夜はこれで失礼いたしやす・・・



  • 20110630
  • 淡青 ♦pDmV/urE
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  • 編集 ]
Re: 日々紋次郎「飯盛女」

淡青さま、コメントをいただきありがとうございます。

傘の下で……こちらは6月なのに猛暑が続き、日傘が欲しい今日この頃です。

遊女の歴史はかなり古く、元はもっと神聖な存在だったようです。
時代と共に変わるんですね。

自分を安売りして、金を手にする……
清貧とは真逆な風潮は、嘆かわしいと言わざるを得ません。

よろしければ、またおいでくださいね。

  • 20110630
  • お夕 ♦wikz35BA
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Re: 日々紋次郎「飯盛女」

小さな女の子が・・と思うとその後どうやって生きていくのかとさえ哀れんでしまいますが、そういうことも多々あったのでしょうね。
お話と、赤い傘がとてもマッチしていて情景がうかびました。

  • 20110708
  • てのりぱんだ ♦C/Rcg83E
  • URL
  • 編集 ]
Re: 日々紋次郎「飯盛女」

ぱんださま、コメントをいただきありがとうございます。

貧しさゆえの哀しい話が、紋次郎の周辺には数多くありました。
しかし現実に、悲惨な話はたくさん残っているんですね。
女郎の数だけ、哀しいさだめがあったと思います。

  • 20110708
  • お夕 ♦wikz35BA
  • URL
  • 編集 ]
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