紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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第11話 「龍胆は夕映えに降った」

第11話 「龍胆は夕映えに降った」

第11話 「龍胆は夕映えに降った」
(原作 1972.2月) (放映 1972.4.8)
原題は「噂の木枯し紋次郎」であるが、テレビ版では改題されている。シリーズ「木枯し紋次郎」のタイトルには特徴的なものがあり、殆どが「~(は、が、の、に)~た」TA音で終わるパターンからいくと、このタイトルになっても不自然ではない。

逆に、笹沢氏がなぜいつものパターンを踏襲しなかったのかが気になる。
「噂の木枯し紋次郎」は「小説現代」に毎月連載されて、第12話目となる。主人公が無目的な流れ旅を続ける中、推理小説手法を用いて、必ずドンデン返しを入れるというパターンのため、アイディアも限界ギリギリまできていたらしい。そのため、この次の話である「木枯しの音に消えた」で最後にしようと考えていたという。その辺を考慮すると、終末に向かっていく感がし、この原題も頷ける。

私はこの回に登場する、原作の「喜連川の八蔵」が個人的に好きだ。
八蔵の姿形や受ける印象は紋次郎とそっくりである。小説をずっと読んできた者にとっては、紋次郎の外見の記述はお馴染みであるので、ポイントは全て押さえている。従ってこの話の出だしを読むと、違和感が覚える。
まず鞘の色の記述である。紋次郎の長ドスの鞘は錆朱色であり、朱色ではない。そして風貌はそっくりだが、左頬の古い刀傷の記述もない。
愛読者はこの後の種明かしを読むまでもなく、斬られたのは紋次郎でないことに気づく。

原作では紋次郎と八蔵は3ヶ月前に賭場で一緒になり、一晩だけ同じ屋根の下で過ごしている。

「世間では流れ渡世人で最も名を知られているのは、木枯し紋次郎と喜連川の八蔵だなどと取り沙汰をしているようである。しかし、当人たちはまったく、そんなことを意識していなかった。……二人とも余計なことは口にしなかった。ライバル意識どころか、互いに興味も持ち合わなかったのだ。過去のない流れ渡世人というものは、どことなく似通っているのかもしれない。」 (原作より抜粋)

そのあたりを読んだだけでも、紋次郎とそっくりの八蔵とはどんな渡世人なのかと想像が膨らんでくる。
テレビ版は「内田勝正」が演じている。長身で痩せているところの立ち姿は似ている。出来れば原作通り、紋次郎と八蔵が同じ賭場、同じ宿で過ごした様子を映像化して欲しかった。そこでのやりとりや周囲の者たちの反応、二人の所作の美しさや貫禄ぶり、などを比較してみたかった。
ちなみに八蔵役の「内田勝正」はこの後、「流れ舟は帰らず」で十兵衛という悪役ながら重要な役を演じている。

話の展開はかなり変えてある。原作通りで放映となると、やはりお茶の間にはきつい内容である。八蔵の妹の千香は藤兵衛に手籠めにされ、身をくずして居酒屋の酌女になってしまっていた。藤兵衛はそのことを八蔵に知られたくないがため、仙太郎に斬らせたかったのだ。話は複雑であり、藤兵衛の小心ぶりがうかがえる。
テレビ版での藤兵衛は、兄貴分の文五郎の縄張りを狙っての企みとしており、藤兵衛と千香とは無関係である。

テレビ版での、偽紋次郎が殺された直後に本物の紋次郎が現れるなどいうことは、広い街道筋では滅多にない偶然だろう。
その点、原作は必然的である。紋次郎は八蔵の伝言で、この地に呼ばれていたのである。伝言は、千香を見つけたがそのために三十両が入用になったので、何とかよい手蔓がないものかということだった。何の義理もなく、一晩同じ屋根の下で過ごしただけの八蔵の力になろうと思ったのは、やはり八蔵に共感を覚えたからであろう。
多分紋次郎も八蔵と同じ立場なら、同じ道を選んだであろう。しかし、紋次郎にはそんな肉親はいない。自分の命を差し出せるほど愛すべき妹を持つ八蔵のことを、もしかしたら羨ましく思ったのかも知れない。
だから原作の紋次郎は、八蔵のことを哀れだとは口にしていない。そして淡々と藤兵衛に、二十八両を千香に渡せと要求する。

第11話 「龍胆は夕映えに降った」


テレビ版の紋次郎は八蔵と面識はなさそうで、八蔵の人柄も知らないようだ。仙太郎から事の経緯を聞かされた後のセリフ。
「おめえさんは知るめえが、喜連川の八蔵は一頃はちょっとは名の知れた渡世人だった。死ぬ時ぐれえ、てめえの名前で死にやがれ」と語気を強め楊枝を飛ばす。そして一言、「哀れな話だぜ」
哀れな話かも知れないが、八蔵にとってはこの道しかなかったのだ。そして本当に哀れなのは、この後である。

テレビ版での千香は、紋次郎が金を届けに来る直前に馴染みの客と刺し違えて、死んでいた。女郎屋の主は紋次郎が届けた金が二十八両と聞いて、手の平を返したように「これで、立派な墓を建てて供養が出来る」と、ありがたがる。
千香は不幸な妹だったが、龍胆の花のイメージのままこの世を去っている。悲しい結末だが、これはこれでよかったと言える。

しかし原作は本当に酷い。清純な龍胆とは程遠い淫乱な女で、手にした金が続く限り湯治場で過ごそうと男に声をかけている。おまけに兄八蔵の消息など無頓着である。結局生きている間に二十八両は千香に渡ったのだが、実に後味の悪い結末である。
気が優しくて、少女の頃から龍胆の花が好きな千香の労咳を治療するため、命を賭して紋次郎を演じ、紋次郎のまま死んでいった八蔵。千香の浅ましい姿を目にした紋次郎は、ここで初めて八蔵のことを哀れに思う。

「紋次郎は孤影を踏みながら、ふと喜連川の八蔵のことを思い浮かべていた。八蔵がなぜ千香のような妹に二十八両をくれてやりたくて死んでいったのか、紋次郎にはまったくわからなかった。ただ八蔵という男の哀れさが身にしみて、何となく他人事のように思えないのであった。」 (原作より抜粋)
そして最後に、野に咲く一つだけの龍胆に楊枝を飛ばし花を落とす。

テレビ版ではたくさんの龍胆の花が咲き乱れている。手前に龍胆の花、遠景に紋次郎の後ろ姿でエンディングとなっていて、龍胆に楊枝を飛ばすことなく去っていく。しかしどう考えても、このシチュエーションであれば楊枝で花を落とすべきだと思うのだが……。
タイトルを変え「龍胆」をイメージした作品だけに、原作の人間の愛欲ドロドロな内容から清楚で哀愁を帯びた作品に変貌したと言える。

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Re: 第11話 「龍胆は夕映えに降った」

 お夕さんのご指摘通り、木枯し紋次郎の全シリーズを通して、屈指の暗いストリーだったという印象があります。もともと紋次郎シリーズはあまりに暗さに放送自体が危ぶまれたという伝説があります。

 これはあくまでも私的な印象ですが、シリーズ全体を通して、常に孤独と死の影がつきまとっているような気がします。明日はどうなるかわからないと、繰り返し耳元で囁かれているような、そんな気分になります(笑)。

 この回の紋次郎は、特にその部分――孤独と死の影――を強く印象づけるような構成になっていたと思います。泥田の中で三下に殺害される喜連川の八蔵は紋次郎に変装していました。紋次郎の末路と重なるように見える、演出だったような気がします。

 物語の中で紋次郎自身も喜連川の八蔵の最後が、自分の最後に重なった。何もない自分だから最後まで自分でいたい、喜連川の八蔵もそうではなかったのか、だから珍しく感情をあらわにした――という一連の流れを演出していたのかな、と考えています。

Re: 第11話 「龍胆は夕映えに降った」

Gitanさん、コメントをいただきありがとうございます。
紋次郎の原作は本当に暗く、読後、寂寥感、虚無感に襲われます。それが嫌なら読まなければいいのですが、読みたくなるんですね、これが……。
ですが中村氏演じる「木枯し紋次郎」は、観た後なぜか元気が出るんですね。どんな苦境に立たされても孤立無援であろうと、理不尽な仕打ちがあろうと、己を信じ生き抜こうとする姿に生きる勇気をもらっています。
原作と映像の一番大きな違いは、ここにあると思います。

  • 20090524
  • お夕 ♦wikz35BA
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Re: 第11話 「龍胆は夕映えに降った」

村の風景、古い藁葺き屋根、田んぼのあぜ道、そして龍胆の花。

日本の風景そのものが、昔自分が住んで居た田舎の風景と似ている感じがして、本当に懐かしく観ていました。

Re: 第11話 「龍胆は夕映えに降った」

Nicoさま、コメントをいただきありがとうございます。

40年前には、あんな風景が普通に広がっていたんですね。
今、同じ風景を撮影しようと思えば、かなり山奥に行かないとだめでしょう。

紋次郎を感じられる場所に出会うと、本当に嬉しくなります。
この作品の魅力の一つは、ロケ地の美しさにあることは間違いありませんね。

  • 20140523
  • お夕 ♦wikz35BA
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