紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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第15話 「背を陽に向けた房州路」

第15話 「背を陽に向けた房州路」

第15話 「背を陽に向けた房州路」
(原作 1972.1月)(放映 1972.5.6)

「木枯し紋次郎」を連載中に平行して「オール読物」に発表された股旅小説がある。「小仏の新三郎」を主人公にした4作品で、同年8月に「地獄を嗤う日光路」として文藝春秋から単行本で発行された。本作品はその中に収録された第1作目である。

新三郎の容貌はやはり紋次郎に似ている。
「渡世人は二十八、九に見えた。背は高いが、痩せ細っていた。整った顔立ちだが、目も鼻も頬骨も顎もすべてが尖っているという感じだった。
顔色も悪い。青黒かった。それだけに、眼差しの鋭さが異様であった。憔悴しきった人間が、潤んだ目を妙にキラキラと光らせる、そういう目をしていた。
すっかり痛んで、隙間だらけになった三度笠をかぶっていた。黒の手甲脚絆に、黒鞘の長脇差を腰にしている。鞘を固めている鉄環や鉄こじりが、すっかり錆びていた。
月代が、大分のびている。それに髷の後ろに変わったものを刺し込んでいた。平打ちの簪である。銀でできていて先端が小さな耳かきになっており、その次が銀貨ほどの円形の板、それから先が二本脚の簪であった」(原作より抜粋)

テレビ版は新三郎がそっくり紋次郎になっており、展開もほとんど同じである。
新三郎は持病の心臓発作を起こして、倒れているところを「お染」に親切にれ、二両と簪を手渡される。この借りを返すために新三郎は流浪の旅を続けて4年になるのである。その辺が紋次郎とは設定が違うので、「深雪」(原作でのお染)を探しているという出だしで、少し違和感を覚える。

原作では、居酒屋で因縁をつける乞食渡世人が「小仏の新三郎と呼ばれて、ちっとは知られている顔なんだぜ」と騙って脅すところが面白い。
テレビ版の乞食渡世人の風体は、原作通りボロボロの着物の上にゴザをまきつけている。これは笹沢氏の創作ではなく史実に則っている。
今川徳三著「日本侠客100選」(1971年刊)から抜粋する。

「旅人といえば、三度笠に旅合羽。振り分け荷物に長脇差のカッコいい姿が想像されるが、実体はまるっきり違っていた。一宿一飯の旅ぐらしも、顔の通る親分株は別にして、よれよれの着物で、ゴザ一枚をくるくるっと巻いたのをかついで転々とした。古写本などでも『世に言う博奕打ちのように、見苦しき様……云々』と、見えるように、乞食同然の者が多く、夜は、破れ辻堂にもぐり、ゴザにくるまって、夜露をしのいだものである」
まさにその通りの風体である。

「深雪さんってお人は、旅人さんのどういうお人なんですか」の問いに無言の紋次郎。この時の三度笠から見える斜め横顔のシルエットは実に端正で風情がある。女性ファンはここでドキッとする。「深雪は、もしかして紋次郎のいい人だったとか?」あり得ないとはわかっているがもしかして?と心配するも、次のセリフでホッとする。
「借りはつくっちゃならねえ、つくった借りはかえさなくちゃいけねえ。渡世の掟と決めておりやす。でもあの人には未だに借りが返せねえんで……。いや、つまらねえ話をしやした」
ここで、紋次郎は自分自身の掟を語る。独り言のようなこのセリフで、深雪という酌女に恩義があったということがわかる。

この後の展開は原作通りである。組頭の庄左衛門は紋次郎のことを「腕もガラもまずはなあ、義理堅いところが……」と評している。
この義理堅いところを、うまく利用したわけである。
テレビ版ではこの庄左衛門の所に、紋次郎を騙した行商人が百姓姿で訪ねてくる。この時点で視聴者は、紋次郎は何らかの形で利用されていることに気づくので、原作通りもっと後に登場して欲しかった。

今回のテーマは百姓の狡猾さである。今までの時代劇は、百姓は虐げられ搾取される弱者として表されることが多かった。しかし、この回の姿はエゴのかたまりと言っても過言ではない。自分たちの集落「岡大塚」さえ救われれば良いのである。そのため同じ村だというのに「浜大塚」から女を二人さらってならず者に差し出し、もし女が逃げたら村人で始末するとまで計画する。「毒を食らわば皿まで」
と、言葉だけでなく本当に漁師の娘二人をさらってくるなど、テレビ版は原作よりさらに百姓のエゴを前面に出している。
そしてお町とその恋人茂兵衛は、二人の恋の行く末だけを考えている。五人のならず者は雇われた金ほしさに寺に居座り、無理難題をふっかける。本当にどいつもこいつもである。そんな中で紋次郎だけが、純粋に深雪に借りを返すためだけに命を張る。
このコントラストが見事である。

第15話 「背を陽に向けた房州路」

遠国寺で浪人、高瀬浦之助と対峙する紋次郎は浦之助から事の真相を明かされる。「ただ働きだぞ」と言われても「金の約束できたんじゃねえ」と答える。そう言われれば、庄左衛門は一言も「お礼に……」などと言っていなかった。
「ではなんだ?義理か?それでは見逃せん」と斬りつけてくる浪人。義理を果たそうとする人間に、金の話は無用だと悟ったのであろう。
原作ではこの時、心臓の発作が起こり絶体絶命となるが、簪を咄嗟に投げつけその隙に諸手突きで長脇差が浪人の鳩尾に埋まる。テレビ版では、せまい寺の座敷での立ち回りで、息をもつかさない二人の俊敏な動きがすばらしい。
原作にはないシーン。浦之助は紋次郎に斬られ本堂の床下に落ち、紋次郎が飛ばした楊枝が浦之助の刀を床下に落とす。その際、村人たちが床下に隠していた米がザラザラと、白い滝のように浦之助の骸の上にこぼれる。
自衛の為とはいえ、ここまでするかといった感じである。テレビ版では浦之助と一緒にいた女「お銀」が、ひとり正論を吐く。
「私も貧乏のつらさは知ってるさ。知恵がいることも知ってるさ。だけどそれじゃあ、あんまり酷すぎる、汚すぎるよ」

貧しさというのは、ここまで人の心を汚く貧しくさせるものなのか。百姓にとって、自分の土地以外の者はみんなよそ者であり、利用するだけ利用しようとしたのだ。

原作での新三郎は、お染に手渡す二両は残し、後の有り金全部、二朱金をお銀に渡す。
紋次郎は深雪に返すはずだった、紙に包んだ二両をお銀に手渡す。
「たずねてた人の代わりだ、とっときねえ」
人違いであった何のゆかりもないお銀に、躊躇することなく大金を手渡す紋次郎。騙されてただ働きをした上に、二両も渡すなんて……。
どこまでも金には執着しない姿である。
二両と共に、汚い水の底にたまった澱のようなこの村での過去を、紋次郎は置いていく。

庄左衛門の家に戻ったとき、紋次郎はお町と茂兵衛に会い全てを悟る。
「庄左衛門さんに、借りは返したと伝えてやっておくんなさい」
紋次郎にとって、庄左衛門に借りなどないことがわかったのに、テレビ版ではこのセリフで立ち去ろうとする。
さらさら隠し米のことなど他言しようとは思っていないし第一、紋次郎には話し相手などいない。だのにくどくど庄左衛門たちは言い訳を並べ、その上去ろうとする紋次郎の背に鍬を振り下ろそうとする。この辺も原作にはない。どこまでもテレビ版は、百姓の浅はかさと紋次郎の崇高ともいえる精神を比較している。

「あっしが黙ってここを立ち去るのは、あっしもまた、お天道さんに背を向けた男だからでござんすよ」
表題に関わる重要なセリフである。あっしもまた、……「あっしだけでなくおめえさん方も、お天道さんに背を向けているんでござんすよ」
紋次郎の静かなる抗議である。
ラストに乞食渡世人がまた襲ってくるときのセリフ。
「よさねえかい、今日は虫の居所が悪いんだ、命取りになるぜ」
どちらもほとんど原作通りであるが、こんなセリフを自然にサラリと口にできる中村氏の台詞回しは絶品である。
心はとうの昔に死んだはずだが、「虫の居所が悪い」というセリフに、紋次郎の人間らしさが見える。何に腹を立てているのか?
紋次郎は極貧の生まれで貧しさの苦しみは嫌と言うほど経験している。しかし、飢えをしのぐためなら何をしても許されるのか。
「苦労は買ってでもせよ」とはよく言われるが、苦労をして人間性を磨く者もいれば、苦労をして賤しい心根に落ちる者もいるだろう。
しかし紋次郎には、あの百姓たちの生き様を批判することはできないのである。所詮「あっしはあっし、人様は人様」なのだ。頭ではよくわかってはいるが、やはり腹を立てているのだ。

借りを返すことは叶わず、虚しさだけをまた深くして、紋次郎の独り旅は続く。

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Re: 第15話 「背を陽に向けた房州路」

こんぱんは。男性が女性に抱く理想のタイプなどがその作品によく表れますが、笹沢氏は男性の理想像がどの作品も同等な気がしますね。それと笹沢氏は女性に対し、憎悪又は不信感のようなものか゜あるのか?なぜかどの作品も女性が悪なんですよね。
この作品は一番、百姓のエゴがこれでもか、これでもかと言う風に描かれていて、ほんとうに胸が悪くなるような作品です。(;一_一)誰も彼もエゴの塊でね。そして、私もあの最後の紋次郎の「あっしもま・・」と言う所の「も」に最大の避難をこめていると感じました。
貧すれば鈍す・・貧しさはこれ程人間を卑しくするのかと感じました。

  • 20090627
  • sinnosuke ♦GZgNVSBU
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Re: 第15話 「背を陽に向けた房州路」

shinnosuke様、コメントをいただきありがとうございます。
紋次郎の作品に時々出てくる「お天道さん」。
紋次郎にとっての「お天道さん」は、ブレのないただ一つの「人の道」でしょうが、あの百姓たちが掲げる「お天道さん」は、自分の都合がよいようにコロコロ変わり、その度に正当化するんでしょうね。
今の世の中「お天道さん」は死語になりつつありますが、是非とも復活してほしいと思います。
「誰も見ていなかったら、ばれなかったら……」と卑怯な真似をする輩には「お天道さまが、見ているんだぜ!」と言えるようになりたいものです。

  • 20090627
  • お夕 ♦wikz35BA
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Re: 第15話 「背を陽に向けた房州路」

お夕さん、こんばんわ。

この部分・・・「深雪さんってお人は、旅人さんのどういうお人なんですか」の問いに無言の紋次郎。この時の三度笠から見える斜め横顔のシルエットは実に端正で風情がある。・・・私も画像に取り出してました。この風情のある独特な雰囲気が中村紋次郎の魅力ですね。
高瀬浦之助を斬った後で、お銀を見返す紋次郎の泥臭く男っぽい表情も好きです。
思春期の時に好きだったものは特別な感情がわきますね。つい最近「新十郎捕物帖・快刀乱麻」の主題歌だった内田善郎さんの歌う「少女ひとり」がYOUTUBE
http://www.youtube.com/watch?v=M3xP6EP2eQk
で聞けるのが分かって感激した所です。このドラマの内容は「面白かったな」との以外は殆ど覚えていなかったのですが、この歌は時々口ずさんでいて覚えていました。
それに、中学時代に大好きで詩集を読んでいた「戦争を知らない子供達」の作詞者の北山修さん。精神科医になられたのは知っていたんですが、なんとわが娘の大学の大学院教授をされていることが分かって(学部は違うんですが)、九州に在住されてるのかしら、卒業式は列席されるのかしらと驚いてるやら、嬉しいやらの今日この頃です。

  • 20090629
  • おみつ ♦aiP0wTO2
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Re: 第15話 「背を陽に向けた房州路」

おみつさん、コメントをいただきありがとうございます。
齢を重ねると、瑞々しかった貴重な時期のことを懐かしく思い出すものですね。
私も一時期忘れかかっていた紋次郎に再会でき、同じ思いの方々と交流できるようになったことをうれしく思っています。
そして昔の自分から、元気をもらっているような気がしています。あの頃の私の延長上に今の自分がいる訳ですから、原点探しは意義があることでしょうね。

  • 20090630
  • お夕 ♦wikz35BA
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Re: 第15話 「背を陽に向けた房州路」

お夕さん、豪雨お見舞い頂き有難うございました。我が家は高台になるので雨の心配は無いのですが、周りが県道の拡張で立ち退いてしまい台風の時の風の方ひどいです。
ミクシーで知り合ったカミヤッカーさんと言う方がブログに「木枯し紋次郎」の項を設けて記事を書かれています。http://blogs.yahoo.co.jp/bucpolar
彼は小6の時に紋次郎の初放送を見て、ずっとその生き様に心底憧れ続けているそうです。
宜しかったら、お夕さんもご一読して頂ければと思います。

  • 20090701
  • おみつ ♦aiP0wTO2
  • URL
  • 編集 ]
Re: 第15話 「背を陽に向けた房州路」

おみつさま、読み応えのあるブログを紹介いただきありがとうございます。
早速訪問させていただきました。
小6でこの作品の価値を感じられたなんて、おそれ入りました。
これからも、いろいろお教えくださいね。

  • 20090701
  • お夕 ♦wikz35BA
  • URL
  • 編集 ]
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