紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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第17話 「無縁仏に明日をみた」(前編)

第17話 「無縁仏に明日をみた」(前編)

第17話 「無縁仏に明日をみた」(前編)
(原作 1972年) 放映(1972.5.20)
原作は第15話で、いよいよ原作が追いつかなくなったと思われる。原作の第14話は「雪灯籠に血が燃えた」であり、どう考えても5月では季節に合わない。ちなみに「雪灯籠……」は第2シーズン、第36話に放映される。

今とは違い命がけで旅をしていた時代、あまたの無縁仏が存在したことだろう。無縁仏の数だけ無縁になった経緯があり、それぞれの生き様があった。どこの誰かもわからず、見知らぬ土地で命を落とし全くの他人に葬られる。どこで死のうと死んだらおしまいではあるが、実に虚しい思いにかられる。
「水神祭りに死を呼んだ」に通じる死生観がテーマになった作品である。

アバンタイトルからとにかく不気味だ。喧嘩支度の男達が、長ドスや竹槍、手槍を持って青白い霧の中から現れる。
頭には濡れた和紙の上に鉢巻きをしている。濡れた和紙を頭や体に貼り付けるというのは、刀での傷を少しでも防ぐためであり、原作にもある。「帰って来た木枯し紋次郎」の映画でも、紋次郎は敵と対峙する準備で体に濡れた和紙を貼っていた。
「おめえはこの河原で野晒しになるんだぜ」の言葉に「長く生きてえとは、思ったことはねえ。死ぬときが来たら、死ぬまでだ」と答える紋次郎。このセリフと同じような意味のセリフは何度も出てくる。

鞘から長ドスが抜けず、紋次郎は男達に刺され死を覚悟する。視聴者はいつもと違う映像と音楽に、このシーンは現実ではないと薄々わかるのだが、それにしても紋次郎が刺されて苦痛に顔が歪む様は見ていられない。特に闇の奧から死神のようなザンバラ頭の男が、跳躍しながら近づいてくる様は、夢に見そうで恐ろしい。くわえていた楊枝が口からがポトリと落ち、自分の死相が見えたところで紋次郎は悪夢から覚める。
「夢か」と珍しく独り言。やっぱり夢だったのかと、視聴者も一緒にホッとため息をつく。

第17話 「無縁仏に明日をみた」(前編)


原作もテレビ版もオープニングはほとんど同じであるが、この後少しずつ展開が違ってくる。明らかにテレビ版の方が原作よりかっこいい。
猿久保の八十吉の賭場で紋次郎は、素人衆の博奕のいざこざを粋な楊枝の使い方で収める。一度張った駒札を変えることは許されないということを、楊枝を飛ばして戒めるというところである。
「札を動かしちゃいけやせん。お客さんは素人衆だ。作法をご存知ねえ。おあげなすっておくんなはい」
と場を収める。貫禄のある言動に八十吉の子分たちも従う。この言い回しは実に渋くてかっこいい。

お妻を背負っての鳥居峠越えを断る紋次郎の前に飛び出した一太郎のセリフの中に、原作にはないセリフがある。
「病人を見捨てて、野仏にするのかい!」
野仏と聞いて悪夢を思い出したのか、この言葉で不本意ながら紋次郎は力を貸す。
逆にテレビ版では省略されているが、原作での紋次郎は次のようなセリフを口にしている。
旅先でどうにもならなくなると、迎えに来てくれと便りをよこすと話すお妻に一言。

「結構な、ご身分で……」

本来、流れ渡世人は職業ではなく、やむにやまれぬ事情のなれの果ての姿なのだ。好きこのんで渡世人になった訳ではなく、渡世人でしか生きていけない者の手段なのだ。従ってどうにもならなくなっても、当然誰も助けには来てくれない。二進も三進もいかなくなったら、野垂れ死ぬしかないのだ。
博奕ですったから20両を持ってきてくれと兄に泣きつく新八といい、金がなくなったらしょっちゅう女房に迎えに来させる力蔵といい、紋次郎の対極に位置する存在、「結構なご身分」なのである。
力蔵が締まらないのは腹下しだけでなく、甘っちょろい生き方にある。とにかく覚悟というものが微塵にも感じられない。

自分の女房を他人に背負わせ、子どもに手を引いてもらい、有名な木枯し紋次郎に女房を背負ってもらったと自慢げに話す力蔵に、紋次郎がイライラするのも当然である。(後半に続く)

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明日を思わない人間
また、明日の生活が不安であるとか、もっとがんばらなければ落ちこぼれて不幸になるに違いないと思っている人には、がんばりどころがなくてひまだけがあると不安になるでしょう。明日の不安というものがない、あるいは、明日を心配しない人々がいるとすれば、その人たち...
  • 20150212
  • From : 哲学はなぜ間違うのか

この記事へのコメント

Re: 第17話 「無縁仏に明日をみた」(前編)

いつもながら現代社会からは想像しがたい状況のように思えますが、舞台設定を変えれば似たような人間模様は意外とあるような気もしますね。
時代や環境は変わっても、人の性(さが)ってものは不変だと教えられているようです。
一人孤独に野垂れ死ぬ… 真剣に想像したらゾッとしますよね。「我が人生に悔いなし!」などと清々しい心情には間違ってもなれないでしょうから。

深層心理をえぐるような、極めて道徳的な作品にすら感じますねぇ。「木枯らし紋次郎」って。

  • 20090716
  • マイタ ♦B2BsuZNw
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Re: 第17話 「無縁仏に明日をみた」(前編)

マイタさん、コメントをいただきありがとうございます。
平成のご時世でも誰にも看取られず、ひっそりと孤独死を迎える方もおられるようで、いつの世でもそう変わらないのかもしれませんね。
それに、人間ってほとんどの者が自分の死期を知らない訳ですから、この作品は「死を想え」という名言を忘れてはならないと教えてくれているように思いますね。
「今日が最後の日だと思っておりやす」
一日一日を精一杯生きなければ……と時々思います。(ずっと思い続けるのは、やはりちょっとしんどいです)

  • 20090716
  • お夕 ♦wikz35BA
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Re: 第17話 「無縁仏に明日をみた」(前編)

お夕様。こんばんは。この作品で紋次郎はかなり手痛い傷を負います。相手が子供なので油断したのでしょうが、この後誰にも頼る者も無く一人で傷の手当をし、魚を捕り、生き抜こうとします。紋次郎が傷を負う作品は、ドラマと分かっていても、死なないと分かっていても(笑)、辛くなります。紋次郎の発する言葉は本当に心に響きますね。現代人がいかに精神的に弱いか思い知らされます。人間の生き方って時代がかわっても、精神的な事は同じなんだと思いますね。いかに生き、死ぬか・・ですね。

  • 20090716
  • sinnosuke ♦GZgNVSBU
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Re: 第17話 「無縁仏に明日をみた」(前編)

続き。人は弱いので、どうしても人と比べて生きています。過去の自分と、友人と・・同僚と。そして、自分が不遇な時に他人が幸福そうに見えると、そこに嫉妬やねたみや悪意が生まれます。最近の事件はそう言う事に端を発した「誰でも良かった殺人」が増えています。紋次郎のように誰がどうであれ、「あっしはあっしと言う事にしておいておくんなさい」と生きたいものです。

  • 20090716
  • sinnosuke ♦GZgNVSBU
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Re: 第17話 「無縁仏に明日をみた」(前編)

shinnosukeさま、コメントをいただきありがとうございます。
「人は人、あっしはあっしということに……」の裏側には、この世には自分という者はただ一人しかおらず、代わりとなる者は存在しない。言いかえれば、自分の存在感をしっかり自覚しているということだと思います。
自分の生き方に自信がなければ、この台詞は吐けませんよね。
生き方にブレのない紋次郎の強さに、あやかりたいものです。

  • 20090716
  • お夕 ♦wikz35BA
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Re: 第17話 「無縁仏に明日をみた」(前編)

お邪魔いたしやす。
この回での紋次郎さんは生きようとしています。
生魚を食べ(本当は川魚の生はいけません!)
傷を治そうとします。
紋次郎さんを虚無だとかニヒリズムの一言で片付けられることがよくありますが、そんな単純でない生命力を感じさせられます。
生き様も死に様も大事にしているからでございましょう。

Re: 第17話 「無縁仏に明日をみた」(前編)

追記

首のない地蔵さんですかい?こわいです。

Re: 第17話 「無縁仏に明日をみた」(前編)

桐風庵さま、コメントをいただきありがとうございます。
心が折れそうになった時は、この回の紋次郎の生き様を見ると、勇気が湧いてきて生きる力が出てきます。
いろんな方々に、是非とも観ていただきたい作品だと思いますね。

  • 20090717
  • お夕 ♦wikz35BA
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