紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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第20話 「暁の追分に立つ」(前編)

第20話 「暁の追分に立つ」(前編)

第20話 「暁の追分に立つ」(前編)
(原作 1972年 第16話)(放映 1972 11.25)
*写真は「妻籠の宿」。今回の舞台は、金無垢の阿弥陀如来像が隠された妻籠峠。妻籠峠に向かうには、追分を南に向かい木曽路を行く。東に向かうと飯田街道となる。

追分、街道、峠、宿場……これらの文言に反応する人は、かなり紋次郎度が高い人であろう。今回は「追分」。各地に追分という地名はあまたにある。それもそのはずで、追分は分岐点であるから各地にあっても不思議でない。追分で旅人は立ち止まる。あてのある旅人なら迷わず目的の道を選ぶであろうが、あてのない旅人はどうしたのだろう、と想いを馳せる。どちらの道を選ぶかで、この先が決まるのである。
後で後悔しても始まらない。自分が選んだ道なのだから……。それを思うと我々も同じことが言えるかもしれない。人生の岐路に立たされることは誰にだってあり得ることなのだから……。

テレビ版のアバンタイトルからかっこいい。お梶と紋次郎の再会のシーンである。小粋で大人の雰囲気の出会いである。テレビ版ではお梶との過去の経緯は語られていないが、原作ではお梶の台詞がある。

「わたしはお梶。と言ったところで、思い出しもくれないだろうけどね。もう8年も前のことになるよ。甲州は勝沼の賭場でイカサマの針入り賽を使ったことから、お前さんに右腕を斬り落された神楽の才八なら、忘れちゃあいないだろう」
「だったら、思い出しておくれな。8年前、お前さんに右腕を斬り落とされた神楽の才八の、女とか言われていたお梶だよ」

8年前、紋次郎が22歳ぐらいのときか。その若さなのに賭場でのイカサマを見破り、右腕を斬り落とすという荒技をやってのけている。
なんて残酷な……と思われる方もあろうかと思われるが。イカサマが発覚した場合は、そのぐらいのやり方は当然である。ただ、いつも冷静な紋次郎だが、若い頃は血気盛んだったと見える。

テレビ版でのお梶の台詞。
「袖すり合った女だよ」「わたしゃ忘れないよ……わたしゃつくづく惚れちまったのさ」「冷たいじゃないか、昔のよしみで……」
それ以上説明がないので、紋次郎とどういう関係なのかわからないだけに、女性ファンはヤキモキするが、これも脚本家の思うツボなのだろう。

原作の出だしとアバンタイトルはほとんど同じ。違うのは原作では与三郎の名前を出していないが、テレビ版では名前を明かしている。
それにしても原作と映像がピッタリなのには驚く……というか、笹沢氏は原作を書くときに、ドラマのつかみ部分(アバンタイトル)を意識しているのではないかとさえ思わせる。笹沢氏は、映像から少なからず影響を受けたと明かしているが、構成もそのあたりを意識していたのかもしれない。

お梶とのやりとりで紋次郎らしいところ。
「……昔馴染みのお前さんに、是非頼みたいことがあるというだけなのさ」
「お断り致しやす」
「まだ、何も頼んじゃいないよ」
「何も、頼まれたくねえんで……」  

五郎蔵の子分、留吉から頼まれたとき
「ですがね、旅のお人。半分は仏になりかかっているとっつぁんの、最後の頼みとあっちゃあ知らん顔もできやせん」
「誰だって、半分は仏になりかかっているんですぜ。お断り致しやす」             
 (原作より抜粋)

「あっしには関わりのねえこって……」が有名な台詞になっているが、私はそれ以外の断り方が好きである。紋次郎は断るときも、丁寧に断る。冷たい態度で素っ気ないかもしれないが、言葉遣いは誰に対しても大変丁寧である。日本人はなかなかキッパリとものを断れない質だということで、私もご多分に漏れずその類に入る。紋次郎の台詞のように、格好良くキッパリ断れる術も身につけたいものである。

白く流れる朝霧の中、紋次郎の孤影が現れ近づいてくる。原作は5月の朝であるが、放映は晩秋であるのでやはり霧が似合う。
五郎蔵の子分の頼みを一度は断るが、テレビ版の紋次郎は「与三郎」の名前に反応する。お梶から「与三郎」の名前を聞いていたからだ。
テレビ版の紋次郎は市川監督の意向もあり、島抜けの経験は提示されていない。五郎蔵の子分から「二十年も島送りになっていたとっつぁんの願いというのを……」の言葉に振り返り、「島送り……?」と聞き直す。過酷な島送りの生活に、想いを馳せたかどうかは定かではない。
しかし、原作では「島送り」に大きく反応している。
「過去のない男紋次郎にとって、過去として残るのはその島送りの一件だけだと言ってよかった。」とされているほどである。
その後お梶の言った「くたばり損いの爺さん」の話を思い出す。ウェイトのかけ方が違う。
テレビ版の島送り経験のない紋次郎には、「与三郎」という名前を先に明かしておかないと、頼みに心を動かされにくいといったところか。

第20話 「暁の追分に立つ」(前編)


*写真は信州の「追分」。左は主幹道路の中山道、右は善光寺に向かう北国街道。数ある追分の中でも最も有名な分岐点であって、大きな賑わいがあったらしい。

須原の五郎蔵の家に着き、紋次郎は与三郎の臥せっている部屋にまっすぐ入る。五郎蔵には目もくれない。
「用がある、なしだけのご縁でござんす。つきましては、渡世の挨拶は省かせて頂きやす」
原作と寸分違わない台詞であるが、この台詞回しは実に貫禄があり堂に入っている。低く響く声も魅力的である。
与三郎と二人っきりになって、紋次郎は部屋を見渡す。カメラが紋次郎の目となる。天井、柱、壁板、障子……総てに手抜きが無く、実によく作り込んであり、重厚感がある。障子紙一つにしても、当時を再現しているかと思わせるほど凝ってある。
「おめえさん、島送りに関わりがあるのかい」という与三郎の問いに、テレビ版の紋次郎は「いえ…」と言葉を濁す。
与三郎が紋次郎に手を伸ばしたとき、袖口から「二本線と八」の入れ墨が見える。八丈島の島送りの印であり、本来なら紋次郎にも三宅島の島送りの入れ墨が腕にあるのだが……。

「あっしは人を信じねえ代わりに、人から信じられるのも嫌えな性分ですぜ」(原作の台詞)
と言い残し、紋次郎は与三郎を後にする。結局、一言も「引き受けた」とは口にしていない。「それほど紋次郎の気持ちを動かす話ではなかったからである」と原作にある。また、
「生きるか、死ぬか。人は常に、その追分に立たされているようなものだった。死ぬからどうの、生きるからああだのと、騒ぐほうがどうかしているのであった。ただ紋次郎として言えるのは、死ぬ者より生きる者のほうが優先するということだけだった。」
としている。「生きる者のほうが優先」……これがこの作品のラストに効いてくるのだ。

これまでは今際の際の頼まれごとに弱い紋次郎だったが今回はあまり気乗りしない。何故か……。それは自分の欲望に執着する与三郎が、理解できなかったからである。それも盗品をこの目で見てみたい……?これがもし、捨てた女房、娘のためというのならもっと積極的に関わろうとしたかもしれないが、私利私欲のためだけの頼みである。だから目的地まで急ぎもしない。

道中のBGMは第2シーズンのために作られたものか、主題歌がアレンジされている。妙にムード歌謡っぽくて洗練されてないように感じ、私としてはあまり好まない。(後編に続く)

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Re: 第20話 「暁の追分に立つ」(前編)

こんばんは。お夕様。
この作品も好きですね・・全部ですが。(*^_^*)
渡辺美佐子が海千山千のしたたかな姉御って感じがよく出ていますね。上手い役者さんですね。
いつも思うのは、紋次郎は誰に対しても平等で、礼儀正しいです。特に堅気の衆に頼み毎をする時の口上には惚れぼれします。
堅気の衆とは違う世界の人間である自分と言う者を知っているんでしょうね。生きるために仕方なく入った渡世の道であるが、虫けら、最低の人間と思っているのでしょう。「童唄は雨に・・」の冒頭で百姓の青年に子分にしてくれと頼まれる時に諭す言葉にそれがよくあらわれていました。紋次郎にしては長いセリフでした。(笑)
過去のない紋次郎と過去にばかり捉われいるお梶の対比が象徴的な作品ですね。

  • 20090820
  • sinnosuke ♦GZgNVSBU
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Re: 第20話 「暁の追分に立つ」(前編)

sinnosukeさま、いつもコメントをいただきありがとうございます。
昨日も明日もない紋次郎、過去にこだわり恨みだけで生きてきたお梶、明日を我が子と生きようとするお清、物欲に終始した与三郎、等々……いろんな生き様が提示された作品でしたね。
さて自分はどれに当てはまるのか、と自問自答するのもいいかもしれませんね。

  • 20090821
  • お夕 ♦wikz35BA
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