紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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第20話 「暁の追分に立つ」(後編)

第20話 「暁の追分に立つ」(後編)

第20話 「暁の追分に立つ」(後編)
(原作 1972年 第16話)(放映 1972.11.25)
*妻籠宿の造り酒屋の軒先。巨大な杉玉が印象的。

降り出した雨に大木の下で雨宿りをする紋次郎と、五郎蔵の家にいた水仕女が出会う。与三郎の娘と明かすお清役に「横山リエ」。化粧っ気がないだけに、実在感がある。雨の中、身の上を語るお清だが、映像と台詞が微妙にずれていて気になった。後で音声を入れたものと思われる。
原作よりは、かなり気の強い女という印象を受ける。
「和合」という村の説明は原作と同じ。因みに「五街道細見」にも
「むかし木曽の谷中に酒なし。和合の里人はじめて酒を造る。渓水酒味淡愛すべし。」
と書かれており、「和合銘酒屋」という記述も見られる。笹沢氏はこの部分を使ったのだろう。

和合の茶屋で、お梶と出会う。お梶は酒饅頭を食べる紋次郎にもたれかかり、与三郎と阿弥陀如来像の話を一方的に喋り続ける。紋次郎は黙々と食べ続け、お梶は長煙管の由縁も話す。視聴者も読者もこの辺になると、お梶は与三郎の娘だと察しがつくだろう。
「わたしの色気だって満更捨てたもんじゃないんだけどね」とお梶が太股まで露わにして見せ、「いまからでも、遅くはないんだよ。紋次郎さん、わたしに力を貸しておくれな」と流し目を送る。紋次郎は無表情で何の反応も見せず一言、
「世間にありすぎるようなことは、お互えにやめておこうじゃあござんせんか」(原作の台詞より)
この紋次郎の台詞に痺れるファンは数多い。色仕掛けには絶対紋次郎は反応せず、女の武器は通用しない。世の男性は見習って欲しいし、世の女性も色仕掛けには頼らないで欲しいものだ。(私は絶対にこの手は使えないし、功を奏するとは考えにくい)(涙)

お清が必死になって阿弥陀如来像を掘り出すシーンは、生々しく女の執念を感じる映像である。土を掘る音、お清の息遣い、流れる汗、総てが生きている証なのである。紋次郎はその姿をただ眺めるだけである。手を貸すことをしない代わりに、止めもしない。紋次郎にとっては、与三郎に頼まれたとはいえ明確な返答もしていないので、成り行き任せの感じである。

テレビ版ではお清が落とした櫛をお梶が見つけ、お清の正体を見破るのだが、原作には櫛の件はない。お梶はお清の父親のことを「結構なおとっつあんを持ったもんだ」と吐き捨てて、櫛をたたきつける。実のところ、口惜しかったのだろう。自分の父親は母親と自分のことを一顧だにしなかったのに、お清は父親の勘兵衛から流人彫の櫛をもらっているのだ。
この後、お梶とお清の壮絶な阿弥陀様争奪戦が繰り広げられる。原作では泥まみれだが、テレビ版では川の中での女の戦いとなる。お梶役の「渡辺美佐子」も体当たりの演技である。着物の裾が乱れ太股まで見え隠れするのも、男性諸氏へのサービスシーンか。お清は「この金の阿弥陀さんが、お腹の子の血や肉になるんだい」と叫ぶがこの台詞は原作通りで大事な言葉である。

紋次郎と五郎蔵一家との立ち廻りも川の中である。BGMも第2シーズンのために作られたものと思えるが、今聴くとやはり古さを感じてしまう。私としてはパーカッション中心か、BGMなしで編集して欲しかった。ただ紋次郎の声(というか息遣い)が、殺陣の合間に入っているのは良かった。新しい試みとして、川の中で自分も敵も首まで水に浸かり睨み合うというシーンがあり興味深い。第1シーズン「月夜に吼えた……」でも川のシーンはあるが、今回のはそれ以上のものを狙っていると思われる実験的なシーンであり、観ている者も息苦しく感じる程である。

第20話 「暁の追分に立つ」(後編)


テレビ版のラストでは放心状態のお梶がお清に、「阿弥陀様はくれてやるよ……。あたしにゃ用なしの阿弥陀様だけど、生まれてくる子には役にも立つだろう。持っておゆき」と優しい言葉をかけるが、原作では紋次郎の台詞である。
「たとえどうあろうと、お清さんは生まれてくる赤ン坊を育てるつもりだと、あっしは見て取りやしたぜ。そのためには、金がいる。あの金無垢の阿弥陀如来像は、死んだ与三郎のためには何の役にも立たねえ。ですがお梶さん、これから長く生きなくちゃあならねえ者にとっては、ずいぶんと役に立ちやすぜ」 (原作より抜粋)
紋次郎は明らかに、「生きる者のほうを優先」している。必死になって、金無垢の阿弥陀如来像を身重の身体ながら掘り起こし、「お腹の子の血や肉になるんだい」と叫んだお清に紋次郎は、自分の母親にはなかった我が子への愛情を感じ取ったのかもしれない。過去を引きずり、恨みに満ちたお梶の執念より、泥にまみれながらも我が子と明日を生きようとする、生への執念を持つお清を尊いとしたのだ。

テレビ版のお梶は与三郎が死んだと聞かされて、本当の自分の気持ちに気づいたような印象を受ける。憎み恨み続けた父親ではあったが、やはりこの世に存在して欲しかったのだ。存在しているから、恨むことが自分の生き甲斐であったのだ。お梶は本当は、父親を愛していたのだろう。恨みと愛情は相反するようでありながら、根は同じなのではないかと考える。

「そんなことは、あっしの知ったことじゃあねえ。それよりお梶さん、あっしはおめえさんに言ったはずだ。明日も知らねえ者に、昨日があるはずはねえってね」
「だから、どうだっていうんだい」
「おめえさんは、どうですかい。おめえさんには明日があるっていうのに、昨日のことばかり、いや遠くすぎ去ったことばかり考えていなさる。おふくろさんと一緒にどんな酷い仕打ちを受けたかは知らねえが、おめえさんの頭の中には実の父親の与三郎を恨み憎むことしかなかったんでござんしょう」
 (原作より抜粋)

原作の紋次郎は、いつになく諭す場面が多い。そしてその結果、飛ばした楊枝の行方はお梶と与三郎をつないでいた長煙管となる。その後原作とテレビ版は同じ台詞。
「おふくろさんの形見なんて、何にもなりはしねえ。すぎたことは、何もなかったことと同じでござんすよ。ずいぶんと、お達者で……」
いつまでも過去にこだわるな、過去の恨みや憎しみからは何も生まれない、明日の自分のために生きろ、とお梶に伝えたのだ。

原作者の笹沢左保氏は実の父親から、少年期よりかなり酷い仕打ちをされてきたようで、家庭的には恵まれていなかった。その点からも笹沢氏の人生観は、紋次郎の生き様と重なる部分が大きいとよく言われている。
私は与三郎と笹沢氏の父親とは、ある意味共通点があるのではないかと考える。また第18話「流れ舟は帰らず」の鬼の十兵衛も、もしかしたら笹沢氏本人ではないかと思ったりする。
今回の作品で笹沢氏は、与三郎とお梶を通して、父親と自分とをじっと見据えていたように思う。そして最終結論として、紋次郎に語らせたのではないか。

因みに笹沢氏は昭和47年の3月末に、疲労による急性肝炎で入院している。しかし各誌とも休載となったのに、紋次郎だけは休まず、入院10日目から黄疸症状もそのままにこの「暁の追分に立つ」を書き始めたと言う。肉体的にも精神的にも辛かったろうが、決して逃げず言い訳もせず、全うするところなど、本当に紋次郎の生き様に似ている。
言い換えればこの作品は、笹沢氏の「執念の作品」とも言えよう。

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Re: 第20話 「暁の追分に立つ」(後編)

お夕様。こんばんは。
数ある紋次郎の名セリフの中で私は、このお梶に対する紋次郎の決めセリフ。好きですね~!(笑)
もう、しびれまくりです。(@_@;)このセリフ部分見たさに、何度も見返してたりしています。
笹沢佐保氏の「詩人の家」を読んだ時に、まさに笹沢氏こそ紋次郎だ!と確信しましたね。彼の家庭環境、父親や兄弟との関係。それからの波乱万丈とも言える青春期が笹沢氏の人生観、死生観を築き上げたのですね。この地球上のすべての人を敵に回したとしても、唯一庇ってくれるのは親だけです。その親から受け入れて貰えなかった、愛されなかった人と言うのは、どこかで自分に自信がなく、例え社会的な地位を得ようが、富を得ようが人を信じられない・・そんな人が多いように思います。
太宰治も富豪の家に生まれながら、真から親の愛情に恵まれなかったので、同様な性格が見られますね。太宰が好んで使った詩に「選ばれし者の傲慢と不安」と言うのがあります。自信家でありながらいつも自分に自信が持てなかったように思います。
人の人格形成と言うのは当然の如く幼少時の親で決まるのか知れませんね。
笹沢氏の「詩人の家」こそ壮大なドラマになると思うのですが・・。内容的に際ど過ぎてドラマ化は無理だった?

  • 20090824
  • sinnosuke ♦GZgNVSBU
  • URL
  • 編集 ]
Re: 第20話 「暁の追分に立つ」(後編)

sinnosukeさま、コメントをいただきありがとうございます。
最近、児童虐待の問題がよく叫ばれていますね。いつの世にも虐待はあったと思いますが、背景が随分変化していると思います。
虐待を受けた子どもの心の傷は計り知れず、人格形成上、大きな影を落とします。また虐待は連鎖されると言われています。
「三つ子の魂百まで」……的を射た言葉ですね。
社会のゆがみを、一番大きく被るのは子どもたちです。
心が痛みます。

  • 20090825
  • お夕 ♦wikz35BA
  • URL
  • 編集 ]
Re: 第20話 「暁の追分に立つ」(後編)

お邪魔いたしやす。
今回も便乗させてもらってます。

父親の存在。居ないよりは居た方が良いですが虐待するような親なら居ない方がよいですね。
生き別れにしろ死に別れにしろ、父親に対していい思いを持ち続けているのであれば、たとえ傍にいなくても心豊かに生きていけるのではないでしょうか。お梶の場合はずっと憎しみを持ち続けていました。
母親に比べて父親を思うことは少ないですが、笹沢先生は、この作品で父親を考える機会を示したのではという気がいたします。

たしかに古臭いBGMです。この手の編曲は70年代、他のドラマでもよく使われてたように思います。あと、子ども向けのミュージカルもそうだったような。時代を感じますねえ。今聴くと野暮ったいです。

お梶のキックは中村俊輔なみの命中率でございました。

Re: 第20話 「暁の追分に立つ」(後編)

桐風庵さま、コメントをいただきありがとうございます。
確かに母親より父親の方が影が薄い、という感じはしますね。
紋次郎のシリーズでは、親子の情愛をテーマにした作品はほとんど見当たらないように思います。一番近い肉親でありながら、一番複雑で、残酷になりやすい関係なのかと思います。

因みに私の運転中のBGMは、紋次郎のサウンドトラックです。かれこれ1年以上は毎日聴いていますが、飽きることがありません。
周囲の者は呆れていますが……。

  • 20090826
  • お夕 ♦wikz35BA
  • URL
  • 編集 ]
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