紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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紋次郎の影を追う「七里の渡し」

紋次郎の影を追う「七里の渡し」

紋次郎の影を追う「七里の渡し」
「七里の渡し」とは、東海道の宮宿(熱田)と桑名宿を結ぶ海路を指します。その距離は約七里あったので、「七里の渡し」と呼ばれていました。東海道で、海上での渡し船は唯一ここだけ。宮宿も桑名宿も当時は大層賑わっていたようで、東海道における1位と2位の規模を誇っていました。

紋次郎もこの「七里の渡し」で伊勢まで向かうはずでした。

「砕けた波に影一つ」で、紋次郎は鳴海宿を過ぎたあたりで人違いをされて若い男に襲われます。近くにいたお甲が驚きの声を上げたので、かろうじて体をかわせたのですが、左腕に手傷を負ってしまいます。お甲はその紋次郎の傷をかいがいしく手当をします。

この話に出てくる「七里の渡し」の渡船場跡を先日訪ねました。この辺りはかつて「熱田湊」と呼ばれていました。
現在は「宮の渡し公園」として整備され、市民の憩いの場になっています。訪れた日は小春日和の穏やかさで、上着も必要のないくらいの暖かさでした。

紋次郎が渡し船に乗り込んだ日も、晩秋ではありましたが穏やかな航海日和でした。まさかその後、とんでもないことが船上で起こるとは……。

江戸時代に比べると現在、この一帯は埋め立てられていて、随分地形が変わってしまっています。そのため、運河の奥にある渡船場といった感じを受けますが、当時は眼前に大海が広がっていたのでしょう。

紋次郎の影を追う「七里の渡し」

まず目についたのが「時の鐘」と呼ばれる鐘楼です。
もともとここにあったものではなく、北に500m離れた蔵福寺に延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により建立されたものでした。
宮の宿人や旅人たちに正確な時刻を知らせ、重要な役割を果たしていたのですが、戦火のため焼失し、昭和58年にこの公園内に復元され、現在に至るということです。鐘は今も蔵福寺に残っています。

紋次郎の影を追う「七里の渡し」

松林とも調和していて、違和感なくどっしりとした姿はなかなか素敵でした。

紋次郎の影を追う「七里の渡し」

その鐘楼に寄り添うように常夜灯があります。火災で一度失われたのですが、寛政3年(1791)に再建されました。ですから、紋次郎がここを訪れたときは目にしているはずです。しかしこちらも荒廃してしまい、昭和30年(1955年)に地元の有志の方が、旧位置に再建されたということです。

周辺には当時を彷彿とさせる建造物があまりないのですが、2軒ほどありました。

紋次郎の影を追う「七里の渡し」

こちらは「熱田荘」。明治29年に建てられた「魚半」という料亭です。現在は高齢者福祉施設として使われていて、市の有形文化財に指定されています。

紋次郎の影を追う「七里の渡し」

同じ並びには、脇本陣格の旅籠だったという「丹波屋住宅」があり、当時は「伊勢久」と呼ばれていました。天保十二年(1841)の「尾張名所図会・七里渡船着」には、当家のものと思われる旅籠屋が描かれているとのことですから、紋次郎も目にしたのかもしれません。こちらも市の有形文化財です。

紋次郎の影を追う「七里の渡し」

この海上ルートは、鎌倉・室町時代から利用されており、古くは壬申の乱の際に、吉野から逃れた大海人皇子(後の天武天皇)の一族が桑名から海路、尾張に渡ったともいわれています。
また、城下町名古屋の玄関口として、人や物品を輸送する重要なインフラでした。
往時をしのぶ建造物の再建や保護活動に、地元の方々が誇りに思い、歴史的価値を大切にしてこられた熱意を感じます。

紋次郎の乗った船は、最終的に桑名にたどり着いたのか、紋次郎がその後伊勢まで行けたのかは定かではありません。


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