紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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第2話 「地蔵峠の雨に消える」

第2話 「地蔵峠の雨に消える」


第2話 「地蔵峠の雨に消える」 
原作(1970.9月)  放映(1972.1.8)


人からの頼まれごとには、必ずと言っていいほど断る紋次郎であるが、これは薄情とか利己的とかいう単純な理由ではない。人を頼らない、だから人に頼られたくない。人を信じない、よって人から信じられることを拒む。これは、つまはじきにされた渡世人が生き延びるための処世術である。
しかしそんな紋次郎であっても、頼みを引き受け遂行することがある。そして一旦引き受けたからには、絶対やり通す。バカが付くほど律儀にやり抜くのだ。
そんな数少ない頼みの中でも、この作品は異例中の異例である。「自分を殺せ」と書かれた書状を、自分の命を狙う相手に届けに行くのであるから。

この作品は紋次郎が連載される(1971年3月)前年、1970年9月号の「小説現代」で、「三筋の仙太郎」が主人公として発表されたものである。
仙太郎を紋次郎として脚本化され、市川監督の構想では、本来第1話として放映されるはずだった。しかし内容が残酷すぎる、悲惨であるという理由で、一部カットされ第2話として放映されたのである。
三筋の仙太郎は、紋次郎が文壇に登場する以前の渡世人である。仙太郎のトレードマークは、背中にある三筋の刀傷、左腕に巻き付けてある綱。それらが紋次郎の左頬の刀傷、口にくわえた楊枝を連想させる。
「旅人さん、その口にくわえた楊枝は、何かのまじないですか?」
「これはただの癖ってもんで……」
この会話は有名であるが、三筋の仙太郎も腕に巻き付けた綱のことを尋ねられ答えている。
「これかい。これはただの、癖というもんさ」
多分、このセリフを最初に口にしたのは仙太郎であろう。

市川監督は仙太郎をベースにしながらも、よりかっこいい紋次郎を確立している。
原作と違う設定や創作された印象的なセリフ。

腹痛に苦しむ十太に無言で背中を向け腰を下ろす紋次郎。
「とんでもねえ、肩貸してもらうだけで十分だ」
「遠慮はいらねえ、こっちは負ぶった方が楽なんだ」
恐縮する十太に気を遣わせまいとする紋次郎の思いやりが見える。

十太を旅籠まで送り届け立ち去ろうとするが、宿の主人の「おめえ達は渡世人仲間じゃねえのか?」という言葉に立ち止まり、結局十太の面倒を見る。この「渡世人仲間」という言葉は、敵地に向かうことを止めるお千代に「あっしも骨の髄から渡世人だからでしょう」と口にする紋次郎のセリフにつながっている。
十太の宿代を賄うために紋次郎は賭場に行き、手にした金の全額を旅籠の主人に渡す。この時の賭場でのしきたりはかなり史実に忠実で、(勝った分の半分近くは胴元に返す)よく研究されていると感じる。

原作ではお千代は半次(十太)の義理の妹で、善助の間に一子をもうけている。しかし市川作品では、お千代は十太の妻である。十太の妻でありながら、十太の親分代わりの囲い者にならざるを得なかったお千代という設定の方が、人間関係に深みがあり切ない。

番組内ではお千代と二人きりになったとき、紋次郎は雄弁に語る。原作ではお千代のことを、「1年中あちこち旅して歩いていても、これほどの美人にはそうめぐり会えるものではなかった」と記されてあるが、それをそっくり紋次郎は口にしている。
これは、紋次郎を知っているファンにとっては絶対考えられない設定である。
第1作目ということなので、紋次郎に状況をいろいろと語らせたのであろうが、私にとっては座り心地が悪く、このシーンになると自分自身が赤面してしまう思いである。

長ドスを抱かず仰向けに寝るほど無防備な紋次郎であったが、何かの気配を感じ長ドスを確かめるところなどはさすがである。また身の危険を察知し、急いで身支度を調える一部始終を見せるシーンは、その手際よさに見とれてしまう。
原作にはない、お千代が紋次郎の長ドスの目釘を抜き、紋次郎はそれに気づき、梅の小枝を目釘代わりにするシーン。
「おかみさん、目釘代わりに庭の梅の小枝をもらいやしたぜ」
実にかっこいいセリフである。

原作の仙太郎の刀は、竹ベラである。襲ってくる敵の刀を奪い、柄を握った右手の上から綱で幾重にも縛り、もっぱら突きで敵を倒すという戦法である。渡世人の持つ刀などは、すぐに刃こぼれして使い物にならなくなる。実に合理的な考えである。
この後の作品、「無縁仏に明日を見た」で紋次郎は、長ドスを右手に縛り付けて立ち回りをしている。このアイディアをいつかは使いたいと思っていたのだろう。

善助が事の次第を全部言い放ち、紋次郎のことを
「とんだ愚か者だったのさ」
と愚弄するが、その後の紋次郎の返しが実に胸をすく。
「愚か者はあっしだけじゃなさそうですぜ…相手を知らなさすぎたって訳さ」

紋次郎と仙太郎の決定的な違いは、仙太郎は労咳に冒されているということである。仙太郎は喀血を繰り返しており、自分の死期を予感している。それが故に、今までにないアテのあるこの旅に充実感を味わっており、それはそのままクライマックスにつながっている。
もう一通の書状(手紙を届けた者を殺せと書かれた)を粕尾の利三郎に届けに行くという仙太郎は
「あっしの身体に、もう先はありやせん。今度血を吐いたら、助からねえ気がします。どうせそうなら、半次さんの頼みを果たしてやりてえんで、正直なところ、早くあの世で半次さんと会いてえのかもしれません。馬鹿なやつだと、笑っておくんなさい」
とお千代に言い、雨の中地蔵峠に向かい消えていく。その後の仙太郎の消息は不明である。
地蔵峠を越えようと越えまいと、死が間近に迫っている仙太郎には、生き甲斐と死に甲斐がないまぜになっていて悲壮感が漂っている。

一方、市川作品の紋次郎は、
「あっしには十太さんの立場がよくわかります…あっしも骨の随から渡世人だからでしょう…あっしが桶川の松五郎を斬りさえしなければ、あんたも今のような辛い目に遭わなくてよかったんだ…十太さんのおかみさん、随分とお達者で…」
渡世の義理で、なんの恨みもない松五郎を紋次郎が斬ったことが発端で、十太もお千代も運命を狂わされたのである。そして最後まで渡世の義理を貫いた十太の生き方に、紋次郎は共感を覚え愚直なまでに約束を果たす。
紋次郎と十太の渡世人としての生き様は、とても真似できないだけに憧れる。

地蔵峠の雨の中の殺陣は圧巻で、ファンの間でも語りぐさになっているほどなので、ここでは割愛する。ただあの雨の中、利三郎一家を叩き斬った後、刀の柄を拭い血振りをして鞘に収める所作のかっこよさには惚れ惚れとした。雨が降る度に私はこの名シーンを思い出す。

ちなみに美術担当の西岡善信氏が、シリーズ全話分の経費をこの回の一話分の経費と思い込み手間暇をかけたという芸術品を味わえるのも、この回の贅沢な楽しみである。

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