紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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第26話「獣道に涙を棄てた」(前編)

第26話「獣道に涙を棄てた」(前編)

第26話「獣道に涙を棄てた」(前編)
(原作 1972年 第19話) (放映 1973.1.6)
「木枯し紋次郎」のシリーズがブラウン管に登場して、2度目の正月を迎えた。
1年前の元旦の夜、殆ど無名に近かった中村敦夫氏が1年後、国民的な知名度と圧倒的な人気を得て、メガホンを取るまでになるとは誰が予想しただろう。舞台演出の経験は俳優座時代にあるとはいえ、30歳過ぎの一俳優に監督を任せるのであるから、この世界では前代未聞の事であろう。
市川監督のあらゆる映像手法を間近に見た中村氏は、俳優としてだけでなく、これから先の映像作りの糧となる大きなプレゼントをもらったわけである。

今回のテレビ版のテーマを、中村氏は「差別」とした。村から疎外された若い夫婦に焦点を当てるという目的で、混血のタレントを起用したのにも驚いた。当時この二人を見たときは、首をひねった。
「この時代に、混血がいるのかなあ。バテレン関係かなあ。」と、眠狂四郎を連想したものだった。差別される者の象徴として、混血タレントを使ったわけで、劇中で混血という設定ではない。このあたりは、中村氏がアメリカで遊学したという経験が背景に感じられる。

アバンタイトルの出だしから紅蓮の炎。農家を二軒建て、全焼させるという、予算を考えない演出のため、市川監督演出の作品が1本飛んだという。
その炎の中から、火だるまで一人、男が飛び出してくる。今でこそ安全を期してのスタントだろうが、当時はどうだったのだろうか。
とにかく火を使うシーンは、経費もさることながら危険が伴うので、細心の注意が必要であるが、映像効果はバッチリである。
いわゆる「つかみはOK!」である。

パッと切り替わって、採石場のような荒涼とした所にぽつんと据わる女の姿を、ロングショットからズームアップしている。アバンタイトル全体が舞台演出っぽく感じるのは、やはり俳優座出身である中村氏の片鱗か。
しばらくは無言劇である。ズームアップでとらえる女の虚ろな表情と回想シーンが、インサート・ショット……このあたりは、見事に市川監督の映像テクニックを踏襲している。
視力がない女という設定なので、聞こえる音が頼りである。視聴者は女の目の美しさを感じながらも、女と同化する。ザッザッと足音だけが響き、紋次郎が前を通り過ぎるその時、初めて女が口を開く。この後も二人劇が続く。
舞台が殺伐とした荒れ地で、無機的なところは、叙情的な背景を重視する市川映像とは違う中村氏のこだわりが見える。
アバンタイトルを観るだけで、「いつもと違うな。」と感じさせるところは、さすがである。

第26話「獣道に涙を棄てた」(前編)

話の展開で大きく違うのは、紋次郎が命を狙われる理由である。紋次郎が見聞きしたものが原作とテレビ版では大きく違う。
原作では、善左衛門と息子の嫁とが人目を忍んで不義をしている現場を目にする。
しかしテレビ版では、善左衛門が7年前赤牛の招き火と称して、商売がたきに火を放った事を紋次郎は耳にする。とにかく露見しては大変ということで、源蔵一家に紋次郎を殺すよう依頼するところは同じ。

今回の作品には、いくつかコミカルなところも見られ、この辺は市川監督演出の「流れ舟は帰らず」と少し通じるところがある。
一番はじめにフッと笑ったのは、紋次郎の動きである。お鈴を加納屋に連れて行き立ち去ろうとしたとき、金で口止めしようと、加納屋が追いかけて来るところ。
路地の内側からカメラが回っているのだが、呼び止められたとたん、急に足を速めるところがスリット状に見える。呼び止められる理由が百も承知で、この後の手の打ち方も見え透いていて、紋次郎にとっては一番嫌なパターンであることがよく分かる。

その後、金をつかまそうと路地に押し込められるのだが、よく見ていると押されながら、板壁ぞいにクルリと身体を回している。いつもかっこいい動きを披露しているのに、何となく緊張感がない。
太吉に追われながらのシーンは、明らかに笑いを狙っている。太吉の着物も、背中に派手な般若の顔がありおもしろい。着物の柄でのインパクトでいくと、「川留めの水は……」でのお勝のペーズリー柄といい勝負である。
原作の太吉にはこんなコミカルさは当然無いし、テレビ版よりもっと酷い火傷痕が広がる醜い顔となっている。

原作では藤岡の源蔵であるが、テレビ版では「鴉の源蔵」と異名が付いている。なぜ鴉か……源蔵一家の出で立ちが黒ずくめだからである。
源蔵役には「阿藤 海」(現、阿藤 快)。彼には申し訳ないが、普通でもかなりインパクトのある方なのに、今回は不気味な白塗りのメーキャップである。病的で非情な感じがあり、「鴉」から「死神」を連想する風体である。
山道で太吉と歩いているとき源蔵たちに襲われる。早朝の霧の中という設定だろうが、スモークの量が激しすぎで白煙の塊がモクモク……といった感じで、もう少し神経を使って欲しかった。

紋次郎襲撃に失敗した太吉が、自暴自棄になって
「どうせよそ者なんだ」「人並みに扱ってもらえねえ」「死ぬことだって怖くねぇんだ」
などと、雨の中座り込んで叫ぶ。周りの町の者たちは、物珍しそうに太吉の醜い顔を見たり、ちんぴらに痛めつけられているのを嘲笑したりで、助けようともしない。ボコボコに痛めつけられ「殺せ!どうせ生きてたってしょうがないんだ。殺せ!」の騒ぎ声を聞きつけて、お鈴が太吉を見つけてすがりつく。
無言で紋次郎はその二人を眺めている。
「紋次郎さん、いつからそこにいなすったんで?」
「紋次郎さん、いつまでこの辺りで足を止めていなさるんで?」
と突っ込みを入れたくなる。

原作での太吉は、紋次郎の行方をずっと追うように源蔵から命じられている。紋次郎は言う。
「あっしはこれから、武州大宮郷へ足を向けやすぜ」
大宮郷は太吉夫婦の故郷であるので、自然と3人で旅することになる。口にはしないが、太吉夫婦を送り届けたいという紋次郎の優しさである。
しかし、テレビ版の紋次郎はなぜ、太吉夫婦と一緒にいるのかが不明である。

今回の紋次郎は、いつになくよく関わる。加納屋にお鈴を送り届けたり、太吉に追われていながらも、一緒に野宿をして太吉の身の上話まで聞いたりする。この夫婦には何の恩義もないのだから、さっさと振り切って行けばいいのにと思う。(中編に続く)

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Re: 第26話「獣道に涙を棄てた」(前編)

お夕様。こんばん。
紋次郎の放映も昨日、とうとう最終回で終わってしまいましたね。(:_;)毎晩、楽しみに観ていたので
日課がなくなりとても寂しいです。
手元に全話のDVDは持っている訳ですが、それとはまた違った感覚です。うーん、上手く表現できませんが。
上記の「獣道に・・」はコメディが好きと言う中村氏だけあって、シリアスな内容ながら随所にユーモアをちりばめてますね。太吉が紋次郎の命を狙いながら、失敗。「助けてくれ~人殺し」と叫ぶ所や田園でのラグビーさながらの追いかけっこなんて笑っちゃいました。(*^_^*)

でも、冒頭の火だるまになる人の撮影は本当にどうやってるのかしら?と私も疑問です。

  • 20091203
  • sinnosuke ♦fqBcBcro
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Re: 第26話「獣道に涙を棄てた」(前編)

sinnosukeさま、コメントをいただきありがとうございます。
最終回と聞いただけで、ホント、寂しくなりますね。去っていく紋次郎さんの姿を、いつまでも見つめ続けたい気持ちになります。

敦夫さんはこの作品(獣道に……)を、なぜ選ばれたんでしょうね。
炎、盲目の美女、よそ者への差別……どの部分に触発されたんでしょう。
盛りだくさんの演出でしたね。

  • 20091203
  • お夕 ♦wikz35BA
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