紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

Articles

第26話「獣道に涙を棄てた」(後編)

第26話「獣道に涙を棄てた」(後編)

第26話「獣道に涙を棄てた」(後編)
(原作 1972年 第19話) (放映 1973.1.6)
原作のテーマは、「肉欲と無償の愛との対比」であるのだ。
かたや息子の嫁と不倫をし金で口止めできないと見るやすぐさま、ヤクザに頼んで闇に葬ろうとする加納屋善左衛門。
肉欲と保身に走り、何でも金で処理しようとする。明らかに自分を筆頭に、人は金で動くものだと思い込んでいる。

一方、醜い顔になった夫の気持ちを、少しでも楽にさせようと自ら失明させたお鈴。
その真意を知り、自分の過ちに死をもって報いようとする太吉。
この対比を狙った原作を敢えて変え、よそ者への差別、キャスティングの妙、ダイナミックな殺陣のほうに中村氏はシフトしたのである。
私としてはこの対比は重要なテーマだと思うので、原作の路線でも良かったのにと思う。

テレビ版では鰐淵女史の迫真の演技。太吉の裏切りを聞き、逆上したお鈴は太吉を刺し殺す。
そして、「これは太吉ではない」と叫び、哀しみと悔しさに満ちた演技が始まる。このあたりは舞台演出に近い。
カメラは長回し、スポットはお鈴一人、アングラ劇の雰囲気もある。

太吉との絆を信じていたのに、裏切られた思いの強さをテレビ版は訴えている。お鈴を裏切った情けない自分を、「腐り芋」「地獄に堕ちればいいんだ」と罵り、舌を噛み切った原作の太吉とは違い、テレビ版の太吉はお鈴にあっさり殺されるのが情けない。
その後お鈴は納屋に火を付け、手首を切り後追い自殺をする。

「今の私にはたった一つだけ見えるんですよ、赤い牛が」
「私が待っていたのはお前さんなんだろうか、それとも赤い牛だったんだろうか」
テレビ版のお鈴のセリフであるが、何を言わんとしていたのか。赤い牛は、お鈴にとって何だったのか。
赤い牛が来てまた火事が起こると、太吉への疑いが晴れる。
それは村人が抱いた太吉への疑いではなく、実はお鈴が抱いた太吉への疑いであったのではないか。
お鈴はうすうす、太吉と妹のことに感づいていたのではないだろうか。
原作ではつい出来心で、太吉はお鈴の妹を襲おうとする。しかし、テレビ版は明らかに不倫が継続している。
「目が見えていても、何にも見えてないことがあるんですね」
このセリフはそのことを表していると、私は思う。
そして目まで潰したことは、一抹の疑念を消し去ろうとする覚悟の表れだったのではないだろうか。

原作にはない上記のセリフを入れることで、より複雑なお鈴の心情が想像できる。
村人たちに、赤い牛の存在を認めさせるのが第一義ではなく、太吉への確固たる信頼が自分には欲しかったのだ。

第26話「獣道に涙を棄てた」(後編)

紋次郎は倒れたお鈴に言い聞かす。
「赤い牛はいる。お鈴さん、赤い牛はいるんでござんすよ」

テレビ版はこの場面では楊枝を飛ばさず、紅蓮の炎をバックに敵との殺陣になる。炎をバックにというと市川氏演出の「流れ舟は帰らず」が有名である。
赤い布をまとって炎の中から現れる紋次郎のBGMは、フラメンコギター。牛・赤い布・フラメンコ……まさに連想ゲーム。
ラストの殺陣シーンは、バックに小屋を炎上させるという大がかりな割には、時間的に短くあっさり終わっている。
前半部の山場のため、時間的に無理があったのかもしれない。
原作では、火事の半鐘が響き人の声が近づく中、赤い布を巻き付け紋次郎は走る。村人達に赤い牛が来たことを知らしめるため。必然的に山に逃げ込み、獣道をたどるのである。

テレビ版では村人は来ないのだが、何故か紋次郎は山に入り獣道を行く。「赤い牛はいる」と、お鈴の死に際に言ったのであれば、村人達に見せてアピールして欲しかったのだが……。
ラストは赤い布を投げ上げ、楊枝を飛ばして幹に留め付ける。原作では太吉とお鈴の純愛の象徴として楊枝を飛ばし二人を結びつけたが、テレビ版では赤い牛である赤い布に楊枝を飛ばした。その瞬間、木々の間から鹿が飛び出し獣道という提示がなされる。
しかし、「涙」には触れられていない。その点原作は余韻がある。

「獣道を走りながら、木枯し紋次郎はお鈴の頬に光った涙を思い浮かべていた。」

テレビ版だけを観ていると、どうしても説明不足のため、タイトルの意味がわからないときがある。そのあたりは、映像と小説との大きな相違点かもしれない。できたらこの辺にインサート・ショットで、お鈴の涙を映像化してほしかった。

しかしテレビ版でのエンディング映像は、なかなか風情があってよかった。
樹木の太い幹で斜めに画面がカットされていたり、獣道の奥深く歩いて行く紋次郎の姿が、次第に霧の中に消えていったり……。
しみじみとした自然の映像美があまり見られなかった今回だが、いつもの紋次郎作品らしい風情あるエンディングを踏襲していたと思う。

トラックバックURL

http://kogarashi1940.blog10.fc2.com/tb.php/56-3e3467d9

この記事へのトラックバック

この記事へのコメント

Re: 第26話「獣道に涙を棄てた」(後編)

お夕さん、こんばんは。原作を知ればまた別の楽しみ方があるんですね。同じ原作でも監督によってずいぶん違ったりしますしね。私が小学生のころいじめというのはなく差別があったと思います。クラスに差別されている子が3人いて、私はアウトサイダー的に差別されている子たちと付き合っていました。差別反対とか言って。こどものころは 変な義侠心がありました。しかしするどいですね。お鈴が赤い牛を待っていた意味がやっとわかりました。お鈴は感づいていたんですね。それで紋次郎が「赤い牛はいるんでござんすよ」といった意味も。赤い牛がいないこと、すなわち太吉の裏切りは過去の事実ですから。大事なのは事実でなく、事実をどう解釈して生きるか、つまり過去でなく、現在ですから。紋次郎の信条とも破たんないわけですね。

Re: 第26話「獣道に涙を棄てた」(後編)

八朔さま、コメントをいただきありがとうございます。
私も子どもの頃は正義感に燃え、いろんなやんちゃ坊主と喧嘩をしていましたね。大人になって、その頃のクラスメイトから「随分丸くなったねえ。」と言われたものでした。

紋次郎は、過去のことはすべて置いていきます。「暁の……」で「すぎたことは、何もなかったことと同じでござんすよ」とお梶に言います。とはいえ、自分の過去(間引かれそこねたこと)は、ずっと引きずっていますけどね。
過去にしがみついていても、何の足しにもなりはしませんから。

  • 20091211
  • お夕 ♦wikz35BA
  • URL
  • 編集 ]
コメント投稿フォーム

管理者にだけ表示を許可する

Paging Navigation

Navigations, etc.

About This Website

/