紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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第27話「錦絵は十五夜に泣いた」(前編)

第27話「錦絵は十五夜に泣いた」(前編)

第27話「錦絵は十五夜に泣いた」(前編)
(原作 第25話) (放映 1973.1.13)

紋次郎を助けようとして命を落とす女……湯女の「お久」(湯煙に月は砕けた)に並んで今回の女は「お糸」。
お久は湯女ということで、ズブの素人ではないが、お糸は歴とした素人娘である。その点でも注目すべき作品の一つであろう。

展開は原作とテレビ版はほとんど同じであるが、テレビ版では小悪党、女衒の多之吉(穂積隆信)が登場する。
アバンタイトルはポージングするお糸の姿から始まる。しどけない姿で様々なアングル、ライティングで撮影されている。初めから扇情的な映像というのも珍しい。
放映が1月13日、撮影時はライバル番組、「必殺仕掛人」が先行して放映を始めている。
少なからずスタッフ陣も脅威を感じていたのかもしれない。この収録時点で、紋次郎の放映は始まっていたのだろうか。
この後、視聴率の競い合いは熾烈となる。

何故か多之吉がお糸の絵を持って、「この女を知らないか」と道行く者に訊いている。紋次郎にも訊いてくるが、いつもながら取りあわずに先を急ぐ。
美人画にはホクロがあり、金が絡む企みがありそうなことが提示される。

お糸役に「光川環世」。彼女は第1シーズン「背を陽に向けた房州路」でも出演している。清楚な感じのする女優さんで、素人娘にはピッタリである。
素人というと、今度はその逆……玄人筋の女は「お紺」。演じているのは「小山明子」、大島渚監督の夫人である。
原作では25~26歳くらいの粋な感じのする中年増とあるが、実際の小山女史は10歳は年上である。
しかし「やい、紋次郎!」と言えるくらいの女となると、小山女史くらいの貫禄がないといけないか。伝法肌の姐御役を好演していて、役作りが上手い。

お糸が悪漢に追われ、助けを求めようと紋次郎の合羽に縋りつくシーン。紋次郎の貫禄に怖じ気づいて、三人がすごすごと逃げていくところは気持ちがいい。すがりついている合羽には、鉤裂きを直した痕が見られ、リアリティーさを感じる。

いつもは道連れをつくらない紋次郎だが、今回は二人の女連れである。しかも一人は素人娘であるので、およそ紋次郎には似つかわしくない。紋次郎が歩く後ろを二人の女が小走り状態でついて行く。紋次郎は女の足に合わせようという気はないようである。
「女人講の……」では子連れの女「お筆」と連れだって歩くとき、随分ゆっくり歩いていた紋次郎だが、今回は違う。あまり関わりたくはないのであろう。

原作では十三夜の月明かりの下、三人は夜旅を続け渋峠を越える。その風景を叙情的に表現されているが、テレビ版にはそれがない。それどころか月の片鱗も見えない。
話を先に進めるが、原作の十五夜はクライマックスにも出てこない。タイトルが十五夜なのになぜ、月影一つ映像化されないのか、と不思議に思う。

第27話「錦絵は十五夜に泣いた」(前編)



紋次郎とお糸が祠で語り合うシーンは、しっとりとした雰囲気でいい感じなのだが、どう見ても月夜には見えない。
お糸のセリフで一番ステキなのは
「旅人さんって男っぽい。何でも、できるんでしょうね」
である。
男っぽい……今となっては死語に近い言葉かもしれない。事実私自身、どう逆立ちしても「女っぽい」類ではない。
紋次郎は男っぽい。男の色気と哀愁が漂う。原作でも全く同じセリフであるが、テレビ版だと女性ファンの代弁だと錯覚してしまいそうである。

「何でも、できる」とはどうことなのか。お糸は何でもできると言ったが、無宿の渡世人には実際、何もできない。
博奕を打って旅を続け、降りかかった火の粉を振り払うように人を斬る事しかできない。一所に落ち着くこともできず、人を信じることもできない、明日という日の保証もない、人別帳にものらない……。
お糸の認識不足は甚だしく、紋次郎は、お糸が発した言葉に反論する気もないので、会話は成立しない。堅気の素人娘と紋次郎とは、どこまで行っても絶対に理解し合えないし平行線のままである。

テレビ版ではその言葉を紋次郎が聞いていたかはわからないが、原作では既に寝息を立てていたので、このお糸の告白にも似た言葉を全く聞いていない。
お紺が紋次郎に、お糸は紋次郎に惚れているようだと進言するが、全く取りあわない。それどころか、
「自分を利用しようとしている」
とまで口にする。平行線どころか次元が違うし住む世界が違う。
無理もない。今までどれだけ堅気の者に裏切られてきたことか。

お糸を描いた絵を目にして、テレビ版の紋次郎は、多之吉が持っていた絵のことを思い出した。興味がなさそうに振る舞っているが、紋次郎の記憶力と観察眼の鋭さには恐れ入る。

三人は二泊目を野宿する。原作ではお紺が饅頭を取り出し
「お月見をしようじゃないか」
と言うほど、月夜が美しい情景が描かれている。
ススキ、白い満月、月光を浴びたお糸の姿……。返す返すも放映日が1月というのが何とも惜しい。原作では今の暦で9月、中秋である。
1月に外で月見はないだろうし、暖を取る方が正解であろう。

お紺がお糸の不運を嘆き、紋次郎に同意を求めたそうなのに、紋次郎が発する言葉は
「もっと不運で、辛え思いをしている者がおりやすよ」
である。その通りである。お糸が期待を込めて
「私をどこか遠くへ……」
と訊いても、
「甘ったれちゃあいけやせん。ひとりぼっちは、誰もがお互いさまですぜ」
これもその通りである。紋次郎の生き様を鑑みると、当然のセリフである。が、見方によっては冷たすぎる。
自分の生き様に徹しているのはわかるが、堅気の世間知らずな娘に、自分のポリシーを言って聞かせるのは酷な話である。

しかし百歩譲って、もし紋次郎がお糸を異境の地に連れ出したとしても、お糸にどんな生き方があるだろうか?
野良犬のように、疎まれる渡世人に連れてこられた身元の分からない娘……食べていくとしたら、それこそ女衒に売り飛ばされるしかないだろう。紋次郎について行っても、明るい未来はない。それに「泣きぼくろがあるから幸せになれない」などと呪文に縛られているような生き方では、不幸にとりつかれるに違いない。
紋次郎はロマンチストではない。冷静に考え、行く末を見ている。だから軽々しく関わろうとはしないし、手を差し伸べようともしない。
これが紋次郎自身の不始末で、堅気の娘が不幸な目に遭ってしまったのなら、話は別かもしれない。きっと命を張ってでも片をつけるであろう。

「木枯しの音に消えた」のお志乃でさえ、紋次郎は飯盛女の境遇から救おうとは思ってもいない。

「救い出しようがないのである。遠くから眺める。それで何事もなくすむ。それが、常に紋次郎の望むところだったのである。」
                        原作「木枯しの……」より抜粋
ましては行きずりの、何の恩義も縁もない娘である。所詮紋次郎には何もできないのである。理詰めで考えるとそうなのだが……。

お糸と若旦那が出会う。若旦那の後ろ盾の善九郎の身内は、「女に手を出した」と問答無用で紋次郎に襲いかかる。やはりそうなるのだ。
渡世人は端から申し開きなどできないし、紋次郎は話す気もない。降りかかる火の粉を払ったはずが、身内の一人が転げた拍子に自分のドスで死んでしまう。
紋次郎とお紺は、お糸を残し無言で立ち去る。紋次郎が無言なのはわかるが、あんなに世話を焼いていたお紺まで、なぜ無言なのか。
「お糸さん、達者で暮らしなさいよ」
ぐらいの声はかけてほしかったが、そそくさと紋次郎の後を追っていく。
(後編に続く)

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Re: 第27話「錦絵は十五夜に泣いた」(前編)

お夕さん、こんにちは。「紋次郎は男っぽい。男の色気と哀愁が漂う」まさにそうですね。先日日本映画専門チャンネルで岡本喜八監督の「姿三四郎」をしているのを途中から偶然見て、敵役で敦夫さんがでていたのですが、やっぱり声が重厚でいい男っぷりですね。かわいそうな役でしたが、哀愁の出せる俳優さんは今はみあたりませんね。

Re: 第27話「錦絵は十五夜に泣いた」(前編)

八朔さま
新年明けましておめでとうございます。
いつも早々にコメントをいただき、ありがとうございます。

敦夫さんの姿といい声といい、本当に男っぽくていいですよね。
野性的なバリバリ、ムキムキな男っぽさではなく、知性と優しさが見える質の高い男っぽさと言いますか……お糸でなくてもついて行きたい……と思いますものね。
しかし、紋次郎には一人でずっといて欲しい。矛盾していますが、イメージは壊さないで欲しいものです。

今年も紋次郎談義に、花を咲かせたいですね。よろしくお願いいたします。

  • 20100101
  • お夕 ♦wikz35BA
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