紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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第33話「木っ端が燃えた上州路」(後編)

第33話「木っ端が燃えた上州路」(後編)

第33話「木っ端が燃えた上州路」(後編)
(原作 1971年)(放映 1973.2.24)
今回ロケ地として特筆すべきなのは、小川と土橋である。お鶴と伝八が語り合う小川のさざ波の美しさ、何度と渡る土橋の風情……。たぶんもう、この風景は失われているだろう。
今や小川は三面張りのコンクリート、橋については安全が重視され、コンクリートと鉄骨で重装備されている。仕方ないことであるが、何となく寂しいものがある。
水面にきらきらと光が反射し、お鶴の素直で素朴なかわいらしさが引き立つ。

原作のお鶴は勢五郎と同じく、翳りのある無口な女という設定である。三下の弥助から
「勢五郎さんよ、おめえ口数が少ねえな。おめえさんとお鶴ちゃんが二人だけでいたら、壁や天井が話を始めるぜ」
と、からかわれるぐらいである。

「もしお前さんにその気があるなら、わたしも一緒に行くよ。二人でほかの生き方を、考えてみようじゃないか」
と勢五郎に言うぐらいで、テレビ版のお鶴ほど積極的に足を洗うことを勧めたりはしない。
ひどい目に遭わされた親分のために死にたいのか、と言うお鶴に、勢五郎は
「おれたちは死ぬときを待って、生きているようなもんじゃねえか」
と答える。
紋次郎の死生観と同じで,、原作の勢五郎は若いながら人生を達観している。

さてテレビ版での伝八は、紋次郎を斬って子分にしてもらう……と斬りつけるが、全く相手にならない。それどころか言わなくてもいいことを、ポロポロ言ってしまう。
そして煮売り屋の客から、その達磨の根付けは武兵衛のために作らせたものだと聞かされる紋次郎。
ということは、密会していた卯之吉は武兵衛と通じているということになる?!
卯之吉は敵方の武兵衛側について、自分の親分を毒殺しようとしているということになるのだ。
もうこのあたりからは、原作とテレビ版とを比べてもあまり共通するところはなく別物である。

紋次郎は本庄の武兵衛に会いに行く。薬を恵んでもらった礼を言うためか?ただそれだけのために、通りがかったついでではあるが足を運ぶ。
毒を盛るだの縄張り争いだのと、きな臭いにおいがするのに向かう。

一方、勘蔵の女お筆に伴って本庄まで来た伝八であるが、武兵衛の子分たちに見つかって痛めつけられている。
そこに武兵衛がやってきて止めに入る。太っ腹な態度で「仏の武兵衛」と呼ばれるゆえんである。
鬼勘とは態度も顔つきも違う。

そこへ紋次郎が現れ、薬のこと、達磨の根付けのことを確かめる。薬を恵んだのは本当は武兵衛だが、当てつけのために「鬼勘」と名乗ってしまったため、紋次郎は人違いをしてしまったことがわかる。

そこまでならよかったのだが、紋次郎は武兵衛と同じ達磨の根付けを、とんでもないところで見つけたと話す。明らかに武兵衛の表情が変わる。何か企みを持っているのは確かである。
武兵衛に不安感を与えるだけで、紋次郎は本庄を後にしようとするが、ここでまたお鶴に出会い
「伝八に足を洗うように諭して欲しい」と懇願されるが、断る。伝八に命を狙われているのに、足を洗うように意見をしろと頼まれても無理な話である。

しかしお鶴の伝八を想うけなげな姿は、紋次郎の気持ちに少なからず変化を与えたようである。
その証拠に一度は断ったはずなのにやはり紋次郎は藤岡に戻っていた。
紋次郎は村外れの祠で、伝八に達磨の根付けを渡し、この持ち主のことを探るようにと示唆する。
そのほかの詳しいことは一切話さない。

なぜか。
紋次郎には所詮関わりのないことだからである。紋次郎にとっては、縄張り争いや親分子分の裏切りなど、珍しくもない出来事なのである。
伝八はヤクザになり男を上げる、などと言ってはいるが、この世界は義理と人情からは遠く離れた汚い世界なのだ。
その真実を伝八の目で確かめさせたかったのだ。言葉を駆使して言い聞かせるより、自分の目で見て耳で聞き、自分の頭で考えることの方が重要なのである。
だからそれ以上は一切関わらない。伝八に自己責任の取らせ方を委ねる。

紋次郎は「童唄を雨に……」で、百姓上がりの三下から子分にしてくれと頼まれたとき、「馬鹿野郎!」と一喝して横っ面を張り飛ばし、目を覚まさせようとする。
故郷にはお前を心配する親兄弟がいるし、帰りを待つ者もいるのに馬鹿なまねをするなと、諭す。

紋次郎には帰るべき故郷がない。天涯孤独である。自分が死んだところで誰も嘆き悲しむ者がいない。だから旅から旅に身を置くしかないのである。
しかし伝八には心配してくれるお鶴がいる。それもわからず、汚いヤクザの道に足を踏み入れるのか。どんな汚い世界なのか、己で思い知れと言いたかったのではないだろうか。

もちろんこの展開はテレビ版だけであるが、帰るところのある若者がこんな世界に身を置くことを良しとはしない紋次郎である。見捨てているようで、見捨てていない。
紋次郎独特のやり方であり、明らかに第一シーズンより大人の対応である。

第33話「木っ端が燃えた上州路」(後編)

伝八は勘蔵の元に帰るが、時すでに遅し……勘蔵はお筆に毒殺され、そのお筆も卯之吉に殺されてしまう。
伝八は卯之吉と武兵衛が落ち合う社まで走って行く。親分の敵討ちのためにである。
冷静に考えればこれを機に、嫌気がさして関わりを捨てればいいのだが、伝八は自分の腕っぷしのことも忘れ走る。

原作では、一家同士の喧嘩仲直りの儀式の最中に勢五郎は現れる。
「自分の命は今日限りだ」と覚悟して、一流とされている親分の前で真実を暴露する。

この場面は大前田英五郎の出現や儀式の手順などが紹介されていて、かなり史実に忠実である。笹沢氏のリアリズムを追求する姿勢がよく表出されている。
ただ原作は毒殺はまだ実行されておらず、未遂である。
テレビ版には出てこない勢五郎と同じ初老の三下「弥助」が、この陰謀に巻き込まれ命を落としている。親身にしてくれていた弥助の意趣返しのために、勢五郎は命を張るのである。
こちらの方が、テレビ版より崇高な心意気を感じる。

伝八は三下なので長ドスは持っていない。匕首だけを振り回し必死である。あんなにひどい仕打ちをされたのに伝八は、「親分の仇だ。」と卯之吉に向かっていく。
武兵衛は高見の見物。
どちらか生き残った方を殺せと子分に言う。とんだ「仏の武兵衛」である。
そこに紋次郎が偶然通りかかる。「野郎!まだうろついてやがったか!」と武兵衛。視聴者としても同じ思いであるが、ここはこの展開にしないと殺陣シーンがなくなる。

「恩を仇で返すわけにはめぇりやせん。行かせてもらいやす。」とズンズン進んでいく紋次郎に「やっちまえ!」の一声。
降りかかる火の粉は払わねばならず、結局紋次郎は、卑怯な真似をした武兵衛一家と戦うこととなる。
一方伝八は、卯之吉と子分と死闘状態。
どちらの殺陣もスマートではなく、非常に泥臭い。しかしなぜか、BGMはさわやかなトランペットの音色。選曲ミスのような気がする。
なぜこんなにリアルな殺し合いなのに、主題歌の旋律をメロディックに明るく流すのだろう。
残酷なシーンに、敢えて美しいクラシックをBGMに使用すると印象に残る、というテクニックを聞いたことがあるが……。
「三下め!」と馬鹿にしていた卯之吉だが、必死の形相の伝八に手こずっている。実際のドスを手にすると、カッコイイどころかこんな状態なんだろうと思う。

紋次郎は「仏の武兵衛」の死に際に一言。
「仏が鬼の命を狙う。世の中逆さまじゃねえですかい。」
原作では、大前田英五郎の台詞である。

捨て身の伝八は卯之吉と子分を殺して、その場で仰向けに倒れ込む。
「紋次郎さん、やっぱり来てくれたんですかい。」
紋次郎は無言である。伝八を助けに来たのではなく、たまたま通りかかっただけである。
結果的には伝八に加勢したことになるが、伝八は己の意思で最終決着をつけたのである。

お鶴が伝八の元に駆け寄り助け起こす。
「おらぁ、もうやめた!」
伝八は手にしていた長ドスを放り上げる。落ちた先には達磨の根付け。紋次郎は楊枝を根付けに飛ばし、持ち主……死んだ卯之吉の動かなくなった手に戻す。

紋次郎は、説教じみたことは一言も言わない。無言であるが、「この二人ならきっと真っ当にやっていける」と見届けたのではないだろうか。
お鶴に支えられながら、伝八は小さな土橋を渡る。新たな二人の旅立ちである。

紋次郎には寄り添う者も、新たなるものもなく、ただ独り旅が続くだけである。

テレビ版での伝八は、ヤクザの世界から足を洗い、めでたしめでたし…というめずらしく希望の見える結末になっている。
この作品には、いくつかどんでん返しがあったが、この結末が一番大きなどんでん返しだったのかもしれない。

原作では、大前田英五郎に惜しまれながら勢五郎は命を落とし、報われない結末となる。
虚しく終わる笹沢世界は、小説内では健在であった。

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Re: 第33話「木っ端が燃えた上州路」(後編)

写真の根付はなかなか粋な小道具ですね。
小川と土橋はもっと風情があります。

今日のからみも、ちと長いですね(笑)

>「勢五郎さんよ、おめえ口数が少ねえな。おめえさんとお鶴ちゃんが二人だけでいたら、
壁や天井が話を始めるぜ」

こんな言い回しは、はじめて聞きました。うまい!

>「おれたちは死ぬときを待って、生きているようなもんじゃねえか」

これ、私が作った自由律俳句とどこか通じるとこがあります。下です。
「ロスタイムと一致する生きた時間」

>しかしなぜか、BGMはさわやかなトランペットの音色。選曲ミスのような気がする。

この部分、見聞きしていませんが、なんだかいいですね~。意表をついたような
トランペットが似合いそうです。

>無言であるが、「この二人ならきっと真っ当にやっていける」と見届けたのではないだろうか。

そこここにに、存在しそうにない渡世人・木枯し紋次郎のダンディズムが観る者をひきつけますね。

Re: 第33話「木っ端が燃えた上州路」(後編)

小父貴さま、コメントをいただきありがとうございます。
今回の原作とドラマでの比較は複雑で、私の筆力では表しきれず、申し訳ございません。

紋次郎兄貴の伝八に対する姿勢は、私たちも見習いたいものがあります。
後輩に手取り足取り教えるんじゃなくて、自分で決めさせ責任を取らせる。
なかなか、できるもんではございません。
関わりがないと言いながら、関わってしまい結局力を貸している。

お鶴の頼みを断っておきながら、やはり彼らのもとに引き返している……紋次郎兄貴の優しさなんでしょうね。

  • 20100421
  • お夕 ♦wikz35BA
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  • 編集 ]
三下の勢五郎

お友さんこんばんは 木っ端に燃えた上州路原作読みました。原作は紋次郎の話ではなく三下の勢五郎の話だったんですね。大筋では卯之吉が武兵衛の本当の子分で勘蔵の女のお筆をたらしこんで毒をもって勘蔵を殺すという点では同じでしたが、話の展開が違うところが多くまるで別の話みたいで面白かったです。ドラマの紋次郎には申し訳ありませんが原作の方がはるかに良かったです。三下の勢五郎題名どうり燃えましたね。燃えて燃えて燃え尽きましたね。大前田の大親分に腕と度胸と人物と三拍子揃っていると言わしめた男の中の男でした。勘蔵親分に丁重に葬られた事でしょう。紋次郎の話はドラマと原作結構違った部分多くて原作も読むべきですね。だんだん寒くなってきました。お友さんもお身体の方気を付けてくださいね。また何か感動した原作読んだらコメします。宜しくお願いします。

  • 20141122
  • ボバチャン ♦-
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Re: 第33話「木っ端が燃えた上州路」(後編)

ボバチャンさま、コメントをいただきありがとうございます。

あの原作を、紋次郎のドラマにするのは、やはり無理があったように思います。「股旅シリーズ」のように、オムニバス形式でやってほしかったですね。
伝八と勢五郎とでは、あまりに違いすぎます。
苦肉の策だったのでしょうが、勢五郎を紋次郎と伝八に振り分けるのは不自然でしたね。

仰るとおり、原作もお読みになることをお薦めします。映像化された作品と比較するのも楽しいですし、未映像のものなら、どのように映像化するか想像するのも面白いです。

以前の記事でも結構ですから、また気になることがありましたら、ご感想をお寄せくださいね。

  • 20141123
  • お夕 ♦wikz35BA
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