紋次郎気質

1972年、一世を風靡した中村敦夫演じる木枯し紋次郎。笹沢氏が生み出した紋次郎とを比較しながら、紋次郎の魅力に迫ります。

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紋次郎の影を追う「信州追分宿」

紋次郎の影を追う「信州追分宿」

紋次郎の影を追う「信州追分宿」
追分とは、道が二つに分かれる所です。従って全国各地に地名として残っていますが、この「追分宿」が一番有名ではないでしょうか。
信州追分は、現在の軽井沢町にあります。

紋次郎の影を追う「信州追分宿」

中山道六十九次の二十番目の宿場で、中山道と善光寺道(北国街道)との分岐点として昔から賑わっていました。この善光寺道の先に「篠ノ井追分」があり、ここで北国西街道(善光寺西街道)と合流します。
同じ追分と名が付くので「追分」と「篠ノ井追分」と区別をしました。

紋次郎の影を追う「信州追分宿」

「木枯し紋次郎」の原作では「流れ舟は帰らず」「雪燈籠に血が燃えた」に地名は出てきますが、通過しています。
「悪女を斬るとき」の悪女「おりん」は、追分宿の宿場女郎のとき、宿場外れで旅人を殺し金を奪ったところを紋次郎に目撃されています。

紋次郎の影を追う「信州追分宿」

この追分は軽井沢、沓掛とで浅間三宿といわれ、食売女(飯盛女)がたくさんいたということです。
幕府の法令では飯盛女とは書かず、食売女(めしうりおんな)と書いてあります。
幕府は宿場に遊女を置くことは禁じ、あくまでも「飯たき女」として扱いましたがその実、黙認されていました。
川柳では軽井沢が食売女の代名詞になっていましたが、この追分宿の方が実際は多かったそうで、最盛期には200~270人もいたようです。
旅籠屋が71軒もあったと覚書にはありますが、約150軒(五街道細見では)ほどの民家ですので、半分近くが旅籠屋だったことになります。ちなみに茶屋は18軒、店は28軒もありました。

紋次郎の影を追う「信州追分宿」

この食売女たちが解放されたのは明治5年のことで、そのとき追分宿には207人の女がいたということです。
その207人の出身地は尾張が98人、美濃が22人、3位が信州で20人、越後18人、越中14人、江戸が12人だということです。(「紋次郎の独白」より)
貧しさのため売られた女たちが、この街道を歩いてこの地に来たのです。ほとんどが身請けもなく親元に帰ることも叶わず亡くなったんだろうなあ、と思うと目にする景色も違ったものに見えます。

紋次郎の影を追う「信州追分宿」

紋次郎の影を追う「信州追分宿」

紋次郎の影を追う「信州追分宿」

脇本陣の油屋は建坪239坪で部屋数は50余り、100人以上の下女がいたとのことです。「五街道細見」には「油屋助右衛門」とあります。
昭和12年に火災により、惜しくも焼失しました。
その後再建され創業350年、昭和初期より多くの著名人や文学作家達の常宿として営業されていましたが、訪れたときは残念ながら休館されていました。

紋次郎の影を追う「信州追分宿」

紋次郎の影を追う「信州追分宿」

私はこの地を2回訪問しています。宿の西はずれにある「分去れ」(わかされ)に初めて立ったとき、「一体幾人もの旅人がここで立ち止まり、道を選んだのだろうか。」と感慨深いものがありました。
右は北国街道の更科や越後方面、左は京都、吉野方面に通じています。

紋次郎の影を追う「信州追分宿」

紋次郎の影を追う「信州追分宿」

「五街道細見」では休所として「つがるや清吉」と記されていました。この休所というのは茶屋のようです。普通宿場には防衛のため、桝形といって見通しがきかないよう、道を鍵の手のように曲げたところが何か所かありました。
この桝形にあった茶屋が「桝形の茶屋」で屋号が「つがる屋」でした。


紋次郎の影を追う「信州追分宿」

この高札場は昭和58年に復元されたものだそうですが、当時の面影がしのばれます。

紋次郎の影を追う「信州追分宿」

追分というものは、街道を右と左に分ける分岐点ですが、逆の発想では街道が出合うポイントでもあるわけです。
分け、とあるので分かれるイメージしかありませんが、反対方向から歩いてきた者にとっては、文化の合流地点だったのです。
出会いがあり別れがあり、追分という所は数々のドラマが昔からあったことでしょう。

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Re: 紋次郎の影を追う「信州追分宿」

美空ひばりのリンゴ追分しか知りませんでした。
古い言葉なんですね。
記述を読みながらヨーロッパとアジアの文化の合流点イスタブールのことを思い出していました(笑)

>貧しさのため売られた女たちが、この街道を歩いてこの地に来たのです

こんな歴史が大きく横たわっているのですね。
この人たちにしろ紋次郎にしろ歴史の表舞台にはほとんど登場しないのですね。

Re: 紋次郎の影を追う「信州追分宿」

小父貴さま、コメントをいただきありがとうございます。

追分、峠、渡し……昔の旅人はある種の感慨を持って越えていったんだろうなあと思いますね。

実際は、名も無き人々の集まりが、世の中を少しずつ動かしていたんだと思います。
歴史に名を残す人の周辺には、表舞台を支える大多数の人々がいたわけです。

歴史上の人物だけでなく、庶民の生活を知ることも、興味深いものがありますね。
しかし人別帳にも載らない人々については、その実態があまり明らかにはなっていないように思います。

それだけに、作家の想像力が物を言うんでしょうね。
笹沢氏は、すばらしい方だと思います。

  • 20100615
  • お夕 ♦wikz35BA
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Re: 紋次郎の影を追う「信州追分宿」

りんご~の花びらが~、風に舞ったよな~~・・・、

追分と聞くとリンゴ追分の美空ひばりの歌が蘇ってきます・・・
飯盛り女たちの哀しい物語が多くあったのでしょうねぇ~・・・

軽井沢には何度か訪ねたことがありますが、
今度機会があったらこの追分宿を訪ねてみようと想います。

  • 20100617
  • ヘルブラウ ♦pDmV/urE
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Re: 紋次郎の影を追う「信州追分宿」

ヘルブラウさま、コメントをいただきありがとうございます。

軽井沢というと、おしゃれな避暑地として若い女性には人気のある地ですが、昔は畑や雑木林に囲まれた泥臭い宿場だったようです。
飯盛女や安い宿場女郎が多く、その代名詞として「軽井沢」の地名が使われたぐらいでした。
時代が変わると、こんなにも受ける印象が違うんですね。
紋次郎が見たら、ビックリするでしょう。

その土地に隠された歴史をひもとくと、また違った感覚で旅をすることができますから、予習をしておくべきだなあと思います。

でも、いつも行き当たりばったりの旅になって、あとで「しまった!」の連続なんですが……。

  • 20100618
  • お夕 ♦wikz35BA
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Re: 紋次郎の影を追う「信州追分宿」

「追分」と言う地名が全国一と言う意味が分りました。私の故郷の近くにも、ありますがなるほど、重要拠点です。紋次郎さんの足跡によりいろんなことが分かり視点の素晴らしさに感銘しますね~^^

  • 20100619
  • 荒野鷹虎 ♦-
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Re: 紋次郎の影を追う「信州追分宿」

鷹虎さま、コメントをいただきありがとうございます。

その土地につけられた地名を調べるのは、結構おもしろいですね。

紋次郎が生きた時代(天保年間)に関係するものに出会うと、心がときめきます(笑)。
おかげで、かなりマニアックな楽しみが増えました。ありがたいことです。

  • 20100619
  • お夕 ♦wikz35BA
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